1.1800年頃、イラン北東部ホラーサーン地方はまだカージャール朝の支配下に組み入れられてはいなかった。イランの対外貿易にはいくつかのルートがあるが、この地方を通る貿易(対アフガニスタン・対ブハラ〉が最も規模が大きかった。 2.1830年代、イランの北西端部に、大量のイギリス綿製品が流入した。すなわち、ウェスタン=インパクトの到来である。他方、北東端部ホラーサーン地方は、カージャール朝のホラーサーン支配の確立をもたらした皇太子の遠征によって荒廃の極みにあった。どれほどのイギリス綿製品がホラーサーンまでもたらされたかは不明である。 3.アメリカの南北戦争に起因する世界的な綿花不足という状況の中、1862年頃ホラーサーンを現地調査したテヘラン駐在イギリス公使館員は、同地方が有望な綿花供給源となる可能性を有していることを指摘しているが、実際には、同地方からヨーロッパ市場への綿花輸出がその後増大したことを示す史料は見られない。 4.1870年頃からホラーサーンにおけるアヘン生産が増大する。ホラーサーン産アヘンは一旦ヤズド市場に流入しブーシェフルまたはバンカレ=アッバースから中国へ送られた。 5.1880年代ロシアの中央アジア進出が完了した。ホラーサーンは今や大国ロシアと国境線を接することになった。貿易の面でもロシアの比重が極めて高くなった。
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