研究概要 |
国境的位置は相異なる文化が出合い易い空間であるが,社会集団的には「国家の主体をなす民族(マジョリティー)」と「少数民族(マイノリティー)」との生起し易い場所でもある。内外のエスニック・マイノリティーの研究は,これまで都市に偏倚しがちである。近年,わが国でも地方,とりわけ農林漁村に生活の拠点をおくエスニック・グループが形成され始めていることに鑑み,この種の嚆矢的なものとみなせる石垣島の2つの大字登野城並びに名蔵に展開している台湾系住民の生活空間の拡縮・変容の把握とそれらの原理の追求とを本研究の目的にした。三か年間の調査の結果から得た知見は下記の通りである。先ず,当該地域に台湾系移民が流入したのは台湾の日領化を契機とするが,彼らがマイノリティー社会を本格的に形成し始めるのは,明治20年代末に本土資本によって創立をみ,短期間で経営不振に陥った洋式製糖会社の跡地の一部に,昭和10年,台湾資本を中核にした「大同拓殖株式会社」が創設されたからである。農業労働者,更に借地農として来島した彼らは文化的差異を利用して,入会山野等に自生している薬用農林産物を独占的に採取し,また自家用に栽培・飼育していた農畜産物などを,差別を受けながらも,それぞれ戸別訪問方式で販売し,多少の蓄財をなしていった。これらの小財が,公有地借り上げのもとに、これらの土地に導入された農業技術や農産物が、彼らの社会を確固たるものにし,地元社会にも多大な影響を及ぼしてきた。しかし,物的基盤に比べると,精神的な基盤は極めて脆弱で,かつて彼らの唯一の紐帯的役割を担っていた「土地公祭」も元住民(大半が市街地に居住)が過去を偲ぶものにだけになり,現在の当該地域(名蔵・蒿田)の住民である台湾系の子孫は殆んど参加していない。
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