本研究は、二〇世紀初頭のドイツにおいて、家族及ぴ家庭教育がどのように議論されたのかを明らかにすることを目的としている。特に、この時期、あるべき家庭教育の推進のための一つのシンボルとして、母の日が大きな役割をになったことに注目している。母の日はアメリカで生まれるやいなや世界中に広まっていったのだが、ドイツはその中でも特に受け入れられた国である。 当時ドイツは、第二次世界大戦による敗戦の混乱のなかで、精神的立て直しが急務の課題となっていた。その課題をひきうけるべく1925年に「民族の復興のための特別委員会」がつくられた。ここに参加したのは、民間団体、地方自治体、有識者個人等さまざまであったが、そのなかで「ドイツこだくさん家族全国連盟」があった。この団体は、あるべき家族像をうちだしながら、民族の立て直しを図ることを目的としたもので、そこで、母の日は重要な位置づけを与えられた。本研究では、この「ドイツこだくさん全国連盟」の機関誌の推移をみながら、民族の復興がしだいに強調されるなかで、母の日がより重視されてくる過程を追った。 母の日をめぐる議論は、一方で、理想の家族や母をたたえつつ、他方で現実の家族や女性を非難する言説によって構成されている。国家や民族の強化や立て直しといった時代の要請、また、近代家族をみずからの地位の確立に役立てようとする家族とそして女たちの期待と共犯しつつ、母の日は普及していった。 ワイマール期のこのような展開は、来る全体主義の時代とは無関係ではなく、むしろ、政治体制が全体主義に移行するより以前に、助走が始まっていたことを明らかにするものである。
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