研究概要 |
近世の瀬戸内地域では,諸産業の発達と激しい人口増加のなかで収奪的な林野利用が展開し,段々畑が開かれるとともに白砂青松と呼ばれる景観がもたらされたといわれている。しかし当時の林野植生の状況が実際どうであったかはほとんど明らかでない。本研究は,広島藩が領内村々に作成させた享保11年(1726)の山帳(御建山御留山野山腰林帳)を分析して当時の林野植生をまずは復元しようとするもので,この3年間に安芸郡2カ村,賀茂郡36カ村,豊田郡86カ村の山帳のデータをパソコンに入力し分析した。 その結果,豊田郡の場合,1カ村平均の林野面積では内陸部から島嶼部に向かうほどその総面積が小さくなること。種類別の内訳では藩の強い規制下にある御建山や村の草刈り場である野山の面積が島嶼部に向かうほど小さくなり,逆に農民の個別所持になる腰林が相対的に大きな面積を占めるに至ること。しかも腰林の植生では,内陸部でなお豊かな松植生を維持しているが沿海部に至るにつれて漸移的に貧弱になり,島嶼部ではそのほとんどが小松程度になっているなど,その地域的特色が明瞭となった。一方賀茂郡の場合,林野面積や種類別では豊田郡と異なり内陸部と沿海部に差がなくむしろ内陸性が強いこと。腰林の植生では,沿海部は豊田郡同様に貧弱であるが,内陸部から漸移的に移行するのではなく内陸に入ると様相が一変するなど,沿海部と内陸部が分断されている賀茂郡の地勢的特徴と合致することなどが判明した。これらは水運の利便性を背景とした燃料需要の大きさを示すとともに,藩においてもそのような生活実態に合わせた林野の種別設定を行っていたことをうかがわせるものである。成果は別掲のように論文等で発表した。
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