本研究では、清代(17世紀前半〜20世紀初頭)のモンゴルの伝統的社会の構造と、清朝が導入した盟旗制度の構造的関係を明らかにする目的から、内モンゴルを例としつつ、各級の公文書(档案資料)を用いて、当該時期の遊牧民の社会構造の中に清朝の制度とは異なる伝統的な要素がいかなる様態をもって存在していたのかを検討した。このため、内モンゴル東部に関して『蒙荒案巻』、西部に関して『成吉思汗八白室』所収の文書史料の整理・分析を試みた。この結果、東部については、『蒙荒案巻』が同地方の開墾を行った地局の組織と活動に関わるものが大半で、かならずしもモンゴル側の社会状況を反映したものではないことが判明した。しかし一方の『成吉思汗八白室』は、チンギス・ハーン廟祭祀関係の文書であり、清朝統治の影にかくされたモンゴル伝統の社会関係を色濃く反映するものであった。そこで本研究では、主として後者の内容の分析を行った。本資料集には、清代に関するものだけで数百件の文書を収録している。これらの整理・分析を通じて、チンギス・ハーン祭祀が、単にオルドス部のみならず、内モンゴルと外モンゴル全体によって維持されていたこと、祭祀を主宰するダルハドと呼ばれる集団が、清朝が位置づけたようにオルドス部の所属とは認識せず、モンゴルのいかなる部族からも独立したもので、祭祀の費用のみを負担して、ほかの一切の税負担を免れるものであるとの認識を有していたことが明らかになった。ここに、清朝の征服によって政治的統合の契機を失ったモンゴル社会が、支配身分たるボルジギン一族の祭祀としてのチンギス・ハーンの祭祀活動を通じて、精神的な統合を維持していたことが明らかになった。ここに本研究の成果がある。
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