研究概要 |
本研究は,コミンテルン・アムステルダム・サブビューロー(1919年11月〜1920年5月)の総合的研究への第一歩として,同サブビューローが1920年2月に開催した国際社会主義会議の議事録と密偵報告,及び同サブビューローが各国左派社会主義者らへ配送し続けたリーフレット類の編集という形で行った。その200ページにも及ぶ分量の第一次史料(英語,独語,仏語及び蘭語)を原文で研究成果報告書に収録した。それらのテキストによって,同サブビューローの活動が,ソヴェト・ロシア,イギリス,アメリカ合衆国,ドイツ,スイス,ベルギー,スペインそしてフィンランドの各国社会主義運動との交流をもった初期コミンテルンの活動としては最も国際的なものの一つであったことが証明される。その証明は,厖大な通信文書類を加えるならば,ますます確固たるものとなりうる。 そのケース・スタディとして,同サブビューローの日本社会主義者との接触を取り上げ,両者間の通信文の紹介という形で「日本社会主義者とコミンテルン・アムステルダム・サブビューローとの通信,1919-1920年」を平成11年度に『大原社会問題研究所雑誌』に公表し,引き続いて平成12年度には同誌に「在墨片山潜の書簡と草稿類,1921年」を公表した(いずれも英文要約を新たに加えて研究成果報告書に再録)。後者の詳細な解説及び注の中では,アムステルダム・サブビューローとそれの解散後に南北アメリカにおける任務を引き継いだコミンテルン・パンアメリカン・エイジェンシーとの間のコミンテルン下部組織としての継承関係等を明らかにし,更には両下部組織のコミンテルンによる一方的な解散指令の問題点を指摘した。
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