平成11年度には、近年発見された写本の確認作業をおこなった上で、叙任権闘争交渉前期即ち教皇パスカリス2世期[1099-1118年]の諸交渉(グァスタラ交渉(1106)、ストゥリ交渉(1111)、ポンテマンモロ会見(1111)など)について、これらの交渉にあっての教皇相続領問題の取扱を、用語を含め確定した。また平成12年度には、叙任権闘争交渉後期即ちカリクトゥス2世期[1119-24年]の諸交渉(ストラスブルク会談(1119)、ヴォルムス協約(1122)など)について、新たな史料情報に基づいて、各交渉ごとに「教皇領」問題の扱い確定した。この作業および分析を経て、これまで日本および欧米においても不明であった点につき、研究成果として次の4点を得た。 第一に、教皇庁では、自らの国家を構想しており(「司祭王国」(regale sacerdotium))、こうした構想の基に「教皇領」は単なる教皇世襲領としてではなく、こうした国家構想の基盤としての国家的領土として「聖ペテロのレガリア」(regalia sancti Petri)と呼ばれたのであった。 第二に1111年2月のストゥリ交渉で「教皇領」問題が初めて討議されたことである。「叙任権闘争」の交渉は1106年グァスタラ交渉で始まったが、当初は論点の摺り合わせに終始していた。1111年のストゥリ交渉で、ローマ教会と帝国との間で多くの論点につき初めて本格的審議が始まるが、まさに「教皇領」問題が初めて公式に扱われたのもこのストゥリ交渉である。 第三にこのストゥリ交渉での「教皇領」の扱いは「(帝国皇帝が)ローマ教会に返還する」という方向であるが、それはその後一貫しており、またそのまま1122年のヴォルムス協約の決議の柱をなすに至った。 第四に、こうした「教皇領」に関する教会・帝国の合意は、教皇庁の「聖ペテロのレガリア」コンセプトを問題にするものではなかった。諸交渉という国際的部隊においては、あくまでもローマ教会が「教皇領]という国家的領有をし得る、という最低ラインでの合意がなされたにすぎなかった。
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