研究課題/領域番号 |
11610539
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
独語・独文学
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研究機関 | 京都産業大学 |
研究代表者 |
生田 眞人 京都産業大学, 外国語学部, 教授 (50140067)
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研究期間 (年度) |
1999 – 2001
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研究課題ステータス |
完了 (2000年度)
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配分額 *注記 |
2,100千円 (直接経費: 2,100千円)
2000年度: 500千円 (直接経費: 500千円)
1999年度: 1,600千円 (直接経費: 1,600千円)
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キーワード | 検閲 / 三月前期 / 亡命 / 抵抗 / 絶対主義 / グリルパルツァー / シューベルト / レーナウ / ウィーン / フランツ二世(一世) / メッテルニヒ / バウエルンフェルト / 歴史劇 / 革命 |
研究概要 |
当該研究では、「検閲(機関)」と言論・出版の自由の対立を機軸に、ウィーンの「三月前期」における独自の近代市民文化の形成を検討した。文化の抑圧システムとしての「検閲」を介しての強権弾圧の発動と、それに対する抵抗の対立構造は、フランツ二世支配の帝政下でのメッテルニヒ体制の劇場政策と演劇人の文化活動(主として劇作品の創造と芝居の興行)の対立に表われていることを、当研究はまず確認し、当時のウィーン・演劇文化の展開と挫折の過程を詳細に論じた。ナポレオン没落後のウィーン会議開催以前から、既にフランツ皇帝は矢継ぎ早に劇場という文化施設と舞台芸術に携わる人間に関わる法令を発布し、これらは大別して「規定(Ordnungen)」と「禁止令(Verbote)]に分れる。しかし、歴史上自由化と民主化を抑圧する意図で制定された、悪名高い「カールスバードの決議(1819)」以後に出された「規定」の内容も、既に実質上「禁止令」に近いもので、たとえば「ブルク宮廷劇場とトーア門民衆劇場に関する規定(1800)」や「ウィーン市外区・劇場警察官の職務規定(1803)」などは、劇場運営や観劇の自由を制限する細則から成るものであった。この傾向は、「即興劇禁止令」や「児童のバレー演舞禁止令(1821)」などに繋がっていく。さらにウィーンでは1826年に穏健な文学・芸術サークルであった「ルートゥラムスヘーレ(Ludlams hohle)」弾圧で解散に追い込まれ、シューベルトとバウエルンフェルトの共作になるオペラもグリルパルツアーやネストロイの劇作品も公表、上演ともに禁止され、「検閲」はパリの七月革命前の1829年まで最も過酷を極めた。 他方で、「検閲」による弾圧政策は数多くの文化人のウィーン脱出を誘発し、特に新天地北アメリカにわたった者はグローバリゼーションの先鞭をつけ、ヨーロッパとアメリカ文化の交流に貢献したことは、肯定的な歴史の皮肉である(シールスフィールドやレーナウのアメリカ体験と文学作品を当論文では検証)。
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