西日本の石棒は、縄文時代中期末に大型のものが伝来し、その後小型化・精製化をとげ、晩期のはじめごろ石刀へと変化し終焉を迎えたと考えられてきた。ところが最近、大阪湾沿岸地方を中心とする地域で突帯文土器にともなって結晶片岩製(泥質片岩・紅簾片岩が多い)の大型粗製石棒が相次いで発見されている。すなわち、縄文時代の最後に再び大型粗製石棒を用いた儀礼がさかんにおこなわれるようになったのである。私は、昨年度より視野を広げ、近畿から瀬戸内地域における結晶片岩製石棒を集成し、これらがどこで生産され流通したのかを明らかにし、どのような歴史的意味をもつのか、すなわち「縄文から弥生」との関わりついて考察した。 今年度の調査によって、石棒の総数は46遺跡156点となり、東は岡山・愛媛・高知から西は滋賀・奈良・和歌山にいたるまでの範囲に分布することを明らかにした。さらに、これらの範囲では、紅簾片岩という特徴的な岩石を素材とした石棒が含まれている。これを利用して、石棒製作遺跡の特定をさらに補強しようとつとめた。すなわち石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡、名東遺跡付近に接してそびえる眉山を踏査し、紅簾片岩の露頭を遺跡のすぐ近くで確認した。これと、神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡出土資料と肉眼での比較検討をおこない、それぞれが非常に類似していることを確認した。 また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式にも満たない短期間に集中することを明らかにし。三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することを確認した。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察した。
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