研究課題/領域番号 |
12013204
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研究種目 |
特定領域研究(A)
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配分区分 | 補助金 |
研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
籠谷 直人 京都大学, 人文科学研究所, 助教授 (70185734)
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研究期間 (年度) |
2000
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研究課題ステータス |
完了 (2000年度)
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配分額 *注記 |
1,100千円 (直接経費: 1,100千円)
2000年度: 1,100千円 (直接経費: 1,100千円)
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キーワード | 綿布 / インド人商人 / 通商網 / ネットワーク |
研究概要 |
戦前期の日本綿製品輸出を担う「日本綿糸布印度輸出組合」には、インド人商人が、組合員として参加しており、1940年には71社にのぼった。そして、日本の敗戦後の46年においても、インド人商人は、90社を数えた。アジア太平洋戦争期においても、インド人商人は日本(なかでも神戸)に居住したのであった。 インド人商人か、1940年代前半においても、日本に居住し得たのは、戦時下にあってもインド人が「敵性外国人」の指定を解除されたためにであった。大蔵省は、41年7月28日に省令にて「外国人関係取引取締規則」を公布し、各国籍商人の取引を規制した。しかし、真珠湾攻撃がなされた41年12月8日には、イギリス帝国内の自治領・植民地が、指定国から外された。そして、インド人には、41年12月29日に指定除外規定(8月13日制定)が適応され、貿易商にたいしては、43年3月30日に指定除外規定が全面的に適応された。これらの地域がイギリスからの独立を希求するものであれば、「敵の敵は友」として、敵性外国人規定が除外され、日本国内での商業活動が法的には保障されたのであった。 敗戦後においても、多くのインド人が日本に居住していたことは、彼らの通商網が、外的な環境の変化に即して再生する可能性を有していたと考えられる。むしろ、日本と南アジアを結ぶインド人の通商網が消え去るのは、インド独立後の五〇年代であった。しかし、通商戦と武力戦が展開した、三〇年代と四〇年代にあっても、インド人の商業ネットワークは、極めて太く認識された国境線を貫き通し、日本と南アジアとの通商的相互依存関係を維持したのであった。
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