研究概要 |
近代初期英国の民衆の心性に焦点を合わせながら、教会裁判所・宗教法廷(church courts)の証言録取書・宣誓証言(depositions)を精査し、それらの言説に表された中傷(slander、defamation)の諸相と、同時代の中傷文学(literature of slander)において表象される重層的な中傷概念との関連性を分析した。とくにL.GowingのDomestic Dangers : Women, Words, and Sex in Early Modern London(1996)などで提出された歴史学の新しい視座を基軸に据えて、上記の関連性の分析を行った。具体的な研究成果は以下のとおりである。 1.近代初期英国における重層的な中傷の概念が、中傷文学の系譜に連なる、同時代の演劇論争(disputes over the theatricality)にも浸透していったプロセスを、シェイクスピア(Shakespeare)の『ハムレット』とヘイウッド(Thomas Heywood)の『役者擁護論』(An Apology for Actors)に焦点を絞りながら解明した。 2.シェイクスピアの『尺には尺を』(Measure for Measure)において、中傷は為政者の恩赦を発動させるメカニズムに組み込まれており、その意味で本劇における中傷は、為政者の権力によって包摂される転覆的要素に他ならないことを実証的に解明した。一方、為政者の権力と結びついた「真実」を表す言説は脱構築される危険性をはらんでおり、「中傷」を表す言説と危うい均衡を劇中で保っていることを検証した。 3.シェイクスピアの『オセロ』(Othello)における中傷の特徴のひとつは、それが私的な場で生成され、公の場に流布されていく過程において、デズデモーナ(Desdemona)の「主体性」・「声」(agency)--文化が割り当てる種種の意味に抵抗する、あるいは書き直す力--を奪っていくこと、さらにオセロ(Othello)の自己劇化の身振りは近代初期英国の民衆文化特有のそれであること、を解明した。
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