研究概要 |
ルネサンス詩学は,「模倣理論」を展開する中で,キケロ主義に基づく修辞学と韻律論を発展・変容させることにより,イタリアやフランスのネオ・ラテン及び俗語詩論に新たな表現原理を導き出した。一方,王朝歌学に於いても,漢語の詩学を選択的に導入することにより,大和言葉の詩学を構成し,「学問の移動」という周辺文化のシステムとしての「模倣理論」を有していたことにルネサンス詩学との共通性が認められる。 ローマ大学の修辞学教授マルク=アントワーヌ・ミュレは,プレイヤード派の詩学に示唆を与え,1572年「開講演説」に於いては,キケロ主義の模倣理論に批判を加え,折衷主義的な「新・キケロ主義」へと端緒を開いた。それは,トレント公会議体制下で,イエズス会ローマ学院の修辞学にも応用され,「キケロの模倣」に対する「キリストの模倣」の優位性が,ペドロ・フアン・ペルピーニャ『講演集十八篇』のオラツィオ・トルセリーノによる序文でも主張されている。ウェルギリウスを扱った「開講演説」では,アリストテレスに基づくミメーシスとしての模倣理論を論じており,「文学的模倣」の基盤として,人間の本性に根差した「自然の模倣」を追求している。 イエズス会巡察使ヴァリニャーノは,1583年『日本諸事要録』に於いて,キケロ及び異教の詩によるラテン語の教授を制限しており,これは,トレント公会議体制下のローマの修辞学に於ける「新・キケロ主義」の日本への波及であると捉えられる。ミュレとヴァリニャーノの間には,キリスト教的修辞学思想が共有されており,東西文化交流史の中で,連動した文学史が構成されている。 紀貫之の『新撰和歌』序に於ける「花實相兼」は,『古今集』に見られる六朝風艶情詩様式の和歌に対抗する「模倣理論」であり,ペトラルキスムを巡るルネサンス詩学の「模倣理論」との平行関係が想定できる。
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