研究概要 |
公共芸術事業計画(PWAP)は、民間事業局(CWA)の失業救済プログラムの一環として、1933年12月にスタートした。PWAPは、生活に困窮している芸術家たちにアメリカ的な情景を主題にした作品を制作するように要請し、公園、駅、郵便局、裁判所などの公共施設を、絵画、彫刻、壁画などの美術作品で装飾しようとするものであった。ベン・シャーンは、PWAPの仕事として、「禁酒法」にテーマにした作品を制作している。ところが、CWAそのものが10億ドルに近い莫大な費用を要したために継続が困難になったため、PWAPも1934年3月には終焉せざるをえなかった。それでも、PWAPは3,750名の美術家の雇用を実現し、約1万5,600点の作品を制作することに成功しており、PWAPの展覧会は、アメリカ美術の社会化を国民に印象づけた。 次いで、1935年5月に雇用促進局(PWA)が設立されると、演劇・美術・文芸などの芸術プロジェクトが実施に移され、PWAPよりはるかに大規模な連邦芸術計画(FAP)が開始された。WPAの文化部門は、演劇、絵画、文学、音楽、歴史調査の5つに分かれていたが、絵画はこのなかの第1プロジェクトであった。FAPは、PWAPよりも自由な制作アプローチを許し、幅広い作風を創造することを目的としており、最盛期には、7,000万ドル近い財政支出に基づいて5,000人以上の芸術家が雇用され、南西部諸州を中心に107カ所のコミュニティ・アートセンターも次々と建設された。FAPに参加したシャーンは、「サンデー・ペインティング」や多数の壁画制作に取り組み、「人間」の「物語」を大切にする冷徹なリアリストの目を磨いた。しかし、ニューディールの終焉、戦時体制へ移行などがFAPの縮小を早めることになり、1939年にFAPの雇用期間が18ヵ月と限定されると、全体の予算も25%削減されることになり、1942年にWPAが廃止されたため、FAPも、1943年にはすべて終止符が打たれたのである。9年間続いたFAPは、絵画10万点、壁画2000点、版画1000点など作品を残している。 1936年のローズヴェルト再選は、「ローズヴェルト連合」の形成を象徴するものであったが、深刻な1937年恐慌の再燃は、大規模な財政支出が恒常的に必要であることを証明することとなった。しかも、1938年の中間選挙で民主党が大敗北を喫したため、政府に対する信頼や期待は急速に色褪せてしまい、国民の経済不安は、軍需を中心とする戦時産業の動員体制でしか払拭されることはなかった。(※本年度はアメリカでの資料調査を計画していたが、在米の友人からの援助と、アメリカのアーカイブズや図書館のライブラリアンの協力により、渡航せずに研究を遂行できた。)
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