群馬県高崎市の旧38か町村の水田を灌漑する長野堰用水系において、渇水期に下流村落が上流堰を一時的に取り払い、上流村落によって堰の修復が行われるまでの間、流下した水を引くオタハライ慣行を中心に調査を行った。その結果、上小塙堰、浜尻堰、貝沢堰、佐野堰、一貫堀用水系の4つの用水支線でオタハライ慣行が行われていることが確認された。オタハライ慣行を行うのは、いずれも用水の流末の村落であり、渇水時には下流村落の権利として上流村落の承認の下に一定の形式により行われてきた。しかし、上流村落との関係は、絶対的な用水量の多寡やその歴史的な経緯によって異なり、上流優先の原則を前提としつつも用水を上流と下流で融通し合う相互扶助的な関係が見られる地域や、裁判すら辞さない極めて厳しい対立関係にある地域など多様である。そのうち、後者の地域である大類地区の五具堰をめぐるオタハライ慣行について、江戸時代から明治時代にかけての水論・裁判資料から、もともと上流村落が専用権を持っていた堰に対して、下流村落が次第に堰を払って水を引く権利を拡大していった変遷過程が明らかになった。そこには、用水の平等分配の考え方が認められる。用水の平等分配の考え方は、長野堰幹線水路で行われた下げ水という慣行にも窺える。下げ水も渇水時に行われる慣行である。ある程度、上流村落に水が回ったのを見計らって、上流堰の取水を一時停止し、下流村落に水を流す慣行であり、下流村落の申し出によって開始される。この慣行は、長野堰用水系全体において、水不足となっている下流域に対して上流域から水を融通するというものであり、時間分水である番水に近い配水慣行であるが、オタハライと共通する村落間の用水に対する考え方が看取されるのである。
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