1.セイント・ジョン・アーヴィンは従来、イギリス演劇の伝統に位置づけられ、北アイルランド作家としての地方色や土着性は顧みらてこなかったが、初期作品の『混信婚』や「寛大な恋人』「オレンジマン』にみえる、信仰をめぐる深刻な主題、とりわけ新旧両教徒間の宗派対立を描く状況設定を考えれば、こんにちなお和平プロセスが難航している北アイルランド出身の作家としての再認識や新たなる考察が必要である。 2.筋金入りのユニオニストと一般に思われているこの作家が、初期・中期作品(『オレンジマン』や『船』)ではむしろユニオニズムの呪縛にとらわれる老父の頑迷さを批判的・否定的に描いており、実父を幼時に亡くしたこの劇作家の伝記事実との心理的関連から注目に値する。 3.第1次大戦中の9か月間、ダブリンのアビー劇場の支配人に就任したものの、相容れない政治理念と演劇観が原因で役者たちとの軋轢や反発を招き、結果としてアーヴィンがアイルランドを捨ててユニオニズムへ傾斜する転機となったことは、アイルランド演劇史の視点からも重要な出来事である。 4.アーヴィン演劇を特徴づける主題は、世代間あるいは男女間の価値観の対立や、個人と社会の葛藤である。ときに辛辣な扱いもあるが、総じて、次代を担う若い世代(『ボイドの店』のハズレット)や自立心を持つ女性(『最初のフレイザー夫人』のジャネット、『ロバートの妻』のサンチア、『親戚知己の方々』のジェニー)に寄せる期待や信頼がこめられた作品が多い。 5.アーヴィンの戯曲文体は、過剰な修飾を排し、実際に日常生活の台詞として通用する平明な流麗さを持ちながら、味わい深い含蓄や陰影を失っていない達意の文体である。
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