本研究は和歌山の木炭生産地を事例に、生業活動の変遷過程から人-里山関係の動態を明らかにするものである。現在、炭焼きの中心となる5、60代以上は、(1)燃料革命以前から今日まで木炭生産だけを専業としてきた人、(2)かつて専業であったが昭和3、40年代に新たに梅栽培業をはじめて兼業となった人、に分けられる。いずれも、第二次世界大戦や燃料革命という一見、木炭生産に不利にも思われる出来事を生かして、以下のように転身をとげた。 かつて炭焼きの多くは、自らは山林を所有せずに「賃焼き」の「焼き子」として、山林を所有する「親方」に雇われて炭を焼いていたが、昭和3、40年ごろをさかい親方から独立して自身が経営者となる「自営」へと経営形態を変えた。これは、燃料革命を機に彼らと競合していた他の炭焼きや親方の数が激減しまた薪炭林の経済的な価値が下がったことで、かつて焼き子であった人びとが直接、薪炭林という資源にアクセスできるようになったことに関連している。そして里山の雑木林の一部を梅畑へと転換することができたのも、燃料革命と無縁ではなかった。 その際、まず炭焼きは薪炭林の「立木権」(材の伐採・利用権)や山の一部を梅畑に開墾して使用する権利を、他の所有者から買うことからはじめた。その資金は、当初は木炭問屋から借り入れるか従軍時の賃金によってまかなわれていたが、自営の炭焼きや梅栽培による収益があがりはじめると、それを立木権購入や、さらには一部の薪炭林や梅畑の所有権購入の資金とした。また、自営となった炭焼きは薪炭林の伐採方法について所有者と交渉することができるようになり、近年は集材機や車の普及、窯の定置化に伴って、山林でも利用される/されない場所があらわれはじめた。 このように人びとは、時代の変化に対応して他生業を導入し、また木炭生産のあり方そのものを変えながら山林とのかかわり方をも変化させていた。この点については、他生業を営む別の地域などのケースと比較しながら、その個別性と一般性を吟味する必要があると思われ、この点を今後の課題としたい。
|