研究課題/領域番号 |
13750597
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研究種目 |
若手研究(B)
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配分区分 | 補助金 |
研究分野 |
建築史・意匠
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研究機関 | 高知女子大学 |
研究代表者 |
三浦 要一 高知女子大学, 生活科学部, 助教授 (70305803)
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研究期間 (年度) |
2001 – 2002
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研究課題ステータス |
完了 (2002年度)
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配分額 *注記 |
1,300千円 (直接経費: 1,300千円)
2002年度: 600千円 (直接経費: 600千円)
2001年度: 700千円 (直接経費: 700千円)
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キーワード | 近世 / 近代 / 大阪 / 都市空間 / 変容 / 都市史 / 社会構造 |
研究概要 |
本研究では、時期的に江戸時代末期から昭和戦前期までを取りあげ、個別町でなく北船場というまとまった地域の宅地割の変化を検討して、近代における都市空間の変容について考察を加えた。 大阪船場の宅地割・街区割が復元可能な史料を収集した検討の結果、現代大阪の都心地域を構成している船場の宅地割が江戸時代に遡って判明する史料は、安政3年(1856)の水帳である。この史料は船場の個別町ごとに残されているが、そのなかで32カ町分がまとまって現存している地域があり、その地域は東西が横堀川、北が土佐堀川、南が平野町通までで、いわゆる北船場にあたる。そして、明治以降になると、明治19年(1886)の「大阪実測図」があり、当時の東西南北の4区およびそれに隣接する郡部の宅地割が判明する。それ以後は地籍図が明治44年、大正7年(1918)、昭和6年(1931)、昭和25年と継続的に作成されており、大阪市域全域の宅地割が判明することを確認している。 さて、大阪北船場の安政3年における宅地割は、東西方向の通りに面して間口をひらく江戸初期の形態が基本的に踏襲されていた。しかし、明治19年になると、南北方向の通りである筋にも開口部をもつ宅地割が顕著にみられた。近世では南北の通りである筋が裏通りにあたり、住宅は建ち並ぶことがなかったと指摘されている。近代初頭においては東西の通りに加えて、さらに筋にも住宅が軒を連ねて建ち並ぶようになり、街区全体で高密度な居住形態が形成されたことを示している。明治42年の堺筋と昭和12年の御堂筋では街路が拡幅され、近代的な街路の成立を契機に宅地割が大きく変貌を遂げた街区が存在していた。その一方で、宅地の集積化がおこなわれた街区があり、集積後には商業・業務用などの近代建築の立地を確認できた。宅地割の再編を通して、近代における都市空間の変容の一端を明らかにすることができた。
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