複雑系の科学は、近代合理主義に代わる新しい科学を問う議論の流れの中で、近年脚光を浴びている新しい科学である。複雑系の科学にはアフォーダンス、オートポイエーシス、内部観測などの様々な理論や方法が包含され、人間を取り巻く自然・社会環境から生命、ひいては人間を含む複雑なシステムの解明が図られている。看護学においても、看護の現象に応じた科学的アプローチとして複雑系の科学への期待は高まっているが、具体的なレベルでの開発は始まったばかりである。これに向けて本研究では、複雑と考えられる看護場面についての記述・分析を通じて、看護現象の複雑さとは何かを明らかにすることを目的に下記の調査を実施した。 調査では、総合病院の混合内科病棟において看護師と患者や家族の間に何らかの葛藤が存在すると考られた事例(8例)を対象に、参加観察を実施し、事例の受け持ち看護師に面接を行い、データを収集した。分析では、バフチンの<対話>の考えを参照し、事例の葛藤状況とそこでの看護師の関わりを事例ごとに質的に分析した。結果、葛藤状況において看護師は、社会や組織上の要請の他、患者や家族を中心とした様々な人々からの呼びかけに応じなければならない多次元的状況のなかで、自らの立場と関与の仕方をその都度決定しており、その様式は患者との関係を軸とし、1)同一化と巻き込まれ、2)引き離しと同調、3)直観と示唆に分類された。 以上の結果をふまえ、複雑性の科学の諸概念と比較しながら、看護場面の固有の複雑さの特徴を考察した。看護師と患者・家族の葛藤状況でのコミュニケーションは、相手との衝突を避け、関係を維持することと、自らの思考や感情の安定性を保ちながら状況を乗り越えることの二つのベクトルに支配されており、相手の言っていることを字義通りに受け取ることができない複雑さを有している。またその状況は相互に浸透しあうようなかたちで情緒的に構造化されており、双方のコミュニケーションが意図せずそこに行き着いてしまう固着化したパターンが存在する。看護師にはその吟味を通じて、より深い次元での相手の苦悩や問いかけへに気づき、応じる必要があることが示唆された。今後、複雑性の科学の適用可能性をさらに見定めるため、援助者-被援助者関係におけるコミュニケーションとそれぞれの思考と感情、行動の関連性について調査をすすめていきたい。
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