メディチ公国において活躍したヴィンチェンツオ・ダンティの芸術論テクスト『完全比例論第一書』の美術史的意味を、公国の芸術環境との関わりの中で解明すべく、当時の諸芸術論、すなわちアレッサンドロ・アッローリの『素描の規則』、ベンヴェヌート・チエリーニの『素描術学習の原理と方法』その他の原典資料や、『完全比例論』同様アリストテレス『詩学』の感化を受け、『完全比例論』とまったく同時期に著されたフランチェスコ・ボッキの『アンドレア・デル・サルトの卓越性について』に着目して、その比較検討をおし進め、ダンティの当該テクストの邦訳を完了した。 またダンティ自身のフィレンツェ到来後の足跡を、コジモ1世時代の芸術環境から明らかにすべく、当時の対抗宗教改革の芸術思潮の中で、マニエラの彫刻の可能であった所以や、コジモ・バルトリのテクスト『ラッジョナメンティ・アカデミチ』その他から推測される16世紀後半のフィレンツェの「彫刻状況」の変容を意識しつつ、これを分析し、フィレンツェ到来直後のダンティはジョルジョ・ヴァザーリやスフォルツア・アルメーニと結びつき、前者の芸術パルタイの一員であっていまだ独自の様式を形成するまでには至っていなかったこと、またやがてネプチューン像コンクールや、後者のために制作した《虚偽に打ち勝つ名誉》によって純粋マニエラの芸術を作り上げて名声を確立するとともに、やがて『完全比例論』を執筆する外因のひとつをなしえたことを暗示した。それゆえ、最初の明快なマニエリスム芸術論に他ならない『完全比例論』は、抽象化された芸術論であったにしても、マニエラとしてのマニエラの芸術という、彼自身のフィレンツェ期における芸術行路の不可避の所産でもあったと理解さるべきことになる。
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