研究概要 |
1990年代以降に発表された旧DDR(東ドイツ)出身の若い作家たち,たとえばヴォルフガング・ヒルビヒやラインハルト・イルグルの作品には「嘔吐」を催すものへの顕著な志向が見られる。すなわちそこでは旧DDR社会で生きられる生が現実性を失って幻想的なものと化す一方,あらゆる種類の解体現象が濃密な文体で描かれるのである。これはひとまず,社会主義文学が等閑視してきたボードレール以来の「醜いもの」の美学への回帰として位置づけられる。だがその一方で彼らは,モデルネの前衛主義に対しては懐疑的である。こうした特徴を持つ「ポストDDR文学」のアクチュアリティは,もっとも先端的な二人の年長作家との対比によって説明することができる。すなわちハイナー・ミュラーとボート・シュトラウスである。 ハイナー・ミュラーの初期テクストでは,非常事態の一見非人間的で戦慄的な体験が,革命的刷新の契機として積極的に肯定される。理想主義的傾向が顕著だったDDR文学にあって,それとは一線を画するミュラーのテクストが若い世代に大きな影響を与えた理由は,この「戦慄」という身体的体験の強度に求められるが,同時に彼らとミュラーの差異もまたここに胚胎している。なぜなら「戦慄」が革命の契機として機能しなくなったときにこそ,若い世代に特徴的なもうひとつの身体的体験,すなわち「嘔吐」が前景化してくるからである。 ボート・シュトラウスのテクストは旧西ドイツのポストモダン状況を前提としている。だが,第一には神話的なもの,戦慄的なものの直接的身体的体験によってメディア社会の表層的表象体系を揺るがせようとする点において,第二にはしかし,そうした身体的経験の有効性を自らアイロニカルに反省する懐疑の精神において,シュトラウスのテクストは,全く異なる文化的コンテクストに置かれたヒルビヒやイルグルのテクストとの接点を有するのである。
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