研究概要 |
ポーランドが《キリスト教の防壁》であるとするレトリック、あるいはイデオロギーは、15〜16世紀を通じて、主として教皇庁に対するポーランド側の外交文書や反トルコのキャンペーン文学を通じて形成されていったが、現在の時点で可能な限り広くポーランド内外の研究成果を渉猟した本研究によって、その形成過程のほぼ全容を日本語で記述することができた。それら公的なラテン語文献における修辞が、どのようにポーランド語の空間に移入されたかについても、S.Orzehowski, M.Rej, J.Kochanowskiらのテクストの分析に基づいてほぼ明らかにできた。16世紀末までポーランド語文献においてはクリシェとしての《キリスト教の防壁》は現れないものの、タタール人、トルコ人、モスクワ人にかかわる表現の中に着実にある特定の形容が反復・定着される様態が窺えた。また騎士Zawisza Czarnyのような、神話形成の過程で生み出されたシンボルが、15世紀以後現代にいたるまでどのように機能したかも、追うことができた。防壁であるとする自己像と同時に、ラテン語ではすでに古代や中世から継承され、発展してきた《アジア》や《東方》の総合的、メトニミー的他者像が、16世紀中葉以降のポーランド語においても形成され始めたことも確認した。しかし、1590年代以降、いわゆるバロック期において質量ともに圧倒的な「開花」を見せる防壁論については、資料の数も研究も膨大であり、それらを記述することは次の課題であり、さらには19世紀のメスィヤニズム、20世紀のポーランド・ソ連戦争期の防壁論再燃、あるいは「連帯」運動期からEU加盟にかけての防壁神話にかかわるレトリックについては、一部の成果を発表したが(本報告書第2部所収)、大部分は今後順次発表してゆきたい。
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