日本における市民社会論の一つの嚆矢としての、1950年代の松下圭一の大衆社会論は、1980年代ヨーロッパ左派の市民社会論と、理論的親和性を持つ。まず両者とも、硬直化ないし教条化したマルクス主義のデモクラシー観への批判を共有する。松下の場合、戦後日本のデモクラシーが大衆デモクラシーへと骨抜きにされつつある状況では、左派(革新勢力)が志向すべきは、デモクラシーを「ブルジョア的」「形式的」と批判して社会主義を直接目指すことではなく、デモクラシーを普遍的なものとして強化することであった。これは、ヨーロッパ左派が80年代に、ジャコバン的な革命・階級闘争に固執する従来の社会主義を批判し、むしろリベラル・デモクラシーの制度を前提とした社会主義でなければならないと主張した(例えばボッビオのデモクラシー論、ムフらによるラディカル・デモクラシー論、キーンの市民社会論)のと、文脈は異なれども同じ趣旨であった。また、資本主義的疎外と大衆社会的疎外という「二重の疎外」を克服するのが社会主義であると考える松下の志向するところは、今日でいう市民社会(「社会・主義」としての社会主義)であり、これはちょうどキーンが、国家主導型福祉国家に対する市場主義的な新保守主義の台頭を前にして、市場=市民社会との図式を否定して、むしろ国家と市民社会の双方の民主化を構想した「二重の民主化」論とオーバーラップするものと言える。その意味で松下の大衆社会論は、単に戦後日本の左翼的言説空間の産物なのではなく、資本主義に批判的な現代市民社会論を先取りする議論を内包していた独自の政治理論であった、と考えることができる。
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