主な天草・島原軍記で刊行されているものを中心に30作品の解題、所蔵、内容、特色等について載せ、基礎的研究として今後の研究の積み重ねになるよう配慮した。 『天草軍記』(元寛日記抜粋)についての考察、本文の翻刻を行った。本作品は『元寛日記』の抜粋と本文中にも記しているが、実際には『寛明日記』等、他の記録も引用している。江戸初期のこうした日記類(『元寛日記』『寛明日記』等)については、その公式性が指摘されているようだが研究が進んでいないので、いまだ不明な点が多く、今後の新分野として検討課題となる。 内閣文庫所蔵の天草・島原の乱関係軍記について主なものの書誌を調査し報告書に載せた。今後、翻刻していく必要があるものが多くある。 水野勝成(福山藩十万石)のように戦国時代の生き残り大名が、子、孫を引き連れて参陣し、自分の経験を生かして幕府の上使松平信綱に意見を言う気骨に、中世末期の名残を感じさせる。また、福山藩をはじめ、一揆鎮圧に参加した諸国の大名の多くが新領地の藩兵を動員しての初めての「戦さ」となる。単なる一揆鎮圧ではなく、藩内統制のまたとない機会でもあったといえる。あわせて水野家の軍記の成立事情(後に一時的に断絶)も考察。 一般に一揆方に浪人が多く加わっていることが単なる一揆ではなく、本格的な戦闘を要する内乱に発展したことは指摘されているが、鎮圧する側の幕府の側にも多くの浪人が参加し、働きによっては諸藩に召抱えてもらおうとしていた様子も多く伺える。また諸藩の対立もこの戦いに微妙な変化を及ぼしていることが前述の解題でわかった。 寺澤家(唐津藩)の天草の富岡城の城代家老、三宅藤兵衛は一般には知られていないが、その出自が明智光秀の孫である。それを意識して華々しく奮戦、討死する作品もある。細川藩主の忠利もまた、明智光秀の孫であり、両者の関係(従兄弟同士)からも三宅記事の強調を図る軍記があっても不自然ではない(藤兵衛の子は後に細川藩に移っている)。戦国軍記の余韻を残している。また寺澤家は『太平記評判(秘伝理尽鈔)』の成立・流布とも深くかかわる家である。島原の乱を契機として、本書が相馬家に貸し出されて書写された事情も推測することができた。『太平記』にも良く出てくる「不思議」の語が、天草・島原の乱関係軍記にもしばしば見られる作品もある。『太平記』を意識して軍記物を製作しようと作者は考えていた可能性がある。 近世後期の天草・島原軍記は、たとえば田丸具房物のような読み物的な作品も今後、単なる作り話ではなく、軍記の延長としての位置づけを試みていく余地はある。今後の課題となる。
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