研究課題/領域番号 |
15520435
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
東洋史
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研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
近藤 一成 早稲田大学, 文学学術院・文学部, 教授 (90139501)
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研究期間 (年度) |
2003 – 2004
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研究課題ステータス |
完了 (2004年度)
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配分額 *注記 |
2,400千円 (直接経費: 2,400千円)
2004年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)
2003年度: 1,400千円 (直接経費: 1,400千円)
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キーワード | 〓延路 / 金湯城 / コズロフ / 黒水城(ハラホト) / 寄倉会子 / 省倉 / 延安府 / 第七将 / 中国史 / 出土文書 / 宋代 / 黒水城文書 / カズロフ / 牒 / 廷安府 |
研究概要 |
北宋末・南宋初の年号をもつ官文書は、今までのところロシア東方学研究所蔵コズロフ将来黒水城文献に含まれた109葉の文書しか知られていない。本研究は、2000年に宋西北辺境軍政文書と名づけられて上海古籍出版社より公刊され、われわれがようやく目にすることのできるようになったこの文書について、その内容を検討し、また部分的ではあるが世界で最初の訳注を試みたものである。 文書はすべて断片であり、詳しい内容は確定できない。そのなかで最も多くの40葉以上は、北宋徽宗朝の宣和年間に〓延路保安軍金湯城(陜西省延安市志丹県金鼎鎮金湯村)で起った軍糧の不正支給に関する裁判関係の書類である。文書にみられる年号によると、金湯城は紹興元年まで宋軍の指揮下にあり、北宋一代を通し対西夏戦の最前線として重要な軍事拠点でありつづけたこの城寨は、北宋滅亡後もしばらく宋側にとどまったことが分かる。しかし史書によれば西夏軍はしばしば金湯城を攻略し、ここを宋側が恒常的に確保するのは神宗の元豊年間以降であり、哲宗の元符2年に、恐らく現在遺跡の残る城壁が築かれ、金湯城の名称が与えられた。裁判は、民間人の李適という人物の告発によって始まった。かれの素性は分からないが、知城や胥吏などを訴え、またかれらが逆に李適を告発しているところをみれば、かなりの有力者であり、この地域の特殊性を考えると軍糧納入か支払いにかかわる商人・鋪戸の可能性が高い。蕃官・蕃兵を含めた軍制の安定的維持が、金湯城を含め縁辺と位置づけられた国境ベルト地帯の最重要課題であり、そのためには軍糧問題の解決が肝要であった。この裁判関係文書は、従来の文献史料ではうかがい知れなかった、その具体的システムを知るための手掛かりを提供する。
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