研究概要 |
明治44年『大阪地籍地図』(吉江集画堂発行)の土地台帳は、1筆ごとに地目(宅地、田、畑など)が記載されている。この地目の区分に着目して、大阪市接続町村の16ケ町村の大字を単位に集計をおこない、さらに宅地と非宅地(田、畑など)に分けて面積の比率を算出した。これにより、明治末期の大阪市接続町村における宅地化の様相が、町村の大字ごとに判明することとなった。 明治末期の大阪市接続町村の16ケ町村では、宅地系面積が1,104,400.54坪、非宅地系面積が6,854,699.70坪である。宅地系面積の比率は13.9%となり、宅地化が全体的に低調であったことになる。宅地系面積の比率が高い町村をあげると、伝法町が84.4%で最も高く、ついで中津村大字光立寺と鷺洲村大字大仁が50%に達していた。また、豊崎村は全5大字が30%以上であり、鷺洲村の浦江と海老江の2大字、中津村大字下三番、鶴橋村の東小橋と岡の2大字がそれぞれ20%以上であった。それ以外の11ケ村は、大字ごとにみても宅地系面積の比率がすべて20%未満であった。 つぎに、宅地化の動向を分析すると、それが顕著に認められる伝法町、中津村、鷺洲村、豊崎村は大阪市の北部に接続しており、その一方で、宅地化が低調な北新開荘村、中本村、生野村、住吉村、津守村、今宮村、天王寺村は、大阪市の東部ならびに南部に所在していた。明治末期の大阪市接続町村では、北部と東南部における宅地化の差異が明らかとなった。明治末期における宅地化の区域は、明治30年に実施された第一次市域拡張の市域とほぼ一致していたが、北部ではその市域をこえて新淀川にまで市街地が形成されていた。なお、明治末期に非宅地系面積の比率が高い村は、大正期以降に市街化され、大正14年の第二次市域拡張で大阪市に編入されることになる。
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