本研究の目的は、戦前・戦後の地方博覧会がその開催地である地方都市にとっていかなる意味があったのかを明らかにすることである。研究対象は1936年開催富山市主催日満産業大博覧会(以下、「日満博」)及び1954年開催富山県・富山市主催、魚津市参加富山産業大博覧会である。 本研究ではまず当該博覧会に関連する史料の収集及び整理・分析を行った。史料は大きく分けて①対象博覧会に関連して作成された刊行物、②地元団体に関する史料、③県会・市会の議事録等の公文書、④地元新聞記事、⑤同時期に他都市で開催された博覧会記録である(②~⑤は主に日満博関係)。 調査の結果、次の点が明らかになった。日満博については、まず博覧会が開催地の宣伝になることと同時に、都市開発の起爆剤になることも期待されていたことが挙げられる。次に博覧会の内容について、全国各地で地方博覧会が数多く開催されていた1930年代には、さらなる娯楽性、地方色が求められており、いかにして観覧者を誘致するか議論されていた。このことから、30年代の地方博覧会のありようを見ることは、当該期地方都市の大衆文化の展開を論じる際に有効な方法であると考えられる。また、満洲館、朝鮮館、台湾館といった植民地の特設館について、各地の博覧会でも類似の展示がなされており、画一的な植民地イメージを普及するものであったことが明らかになった。ほかにも日満博の観覧者層の分析などを行った。戦前・戦後の博覧会の比較ということでは、戦前・戦後ともに「電源県」「工業県」という富山像を呈示したこと、戦前は「満洲国」を、戦後はアメリカの科学技術(「原子力の平和利用」など)・生活文化をテーマの一つにしており、時流・国策にあわせた展示が行われていたことなどが分かった。博覧会の公式記録を見る限り、こうしたテーマ設定は主催者側の意思に基づくものとなっているが、これについては今後引き続き検討したい。
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