本研究では、日本赤十字社(以後日赤と記す)長崎県支部から派遣され、長崎での被爆救護に従事した元救護看護婦の体験とその後の生活史を聴き取り、これまで充分に解明されてこなかった被爆救護の実相を明らかにするとともに、彼女たちがこれまで自らの体験を語らずにいた要因を、日赤による教育訓練との関連から考察することを試みた。 原爆投下直後、長崎では、学校などに臨時の救護所がいくつも設置されたが、日赤からの救護看護婦、総勢268名は、おもに、経済専門学校(現長崎大学経済学部)と新興善小学校で救護にあたった。彼女たちのほとんどが、原爆投下後に救護のために召集され入市した被爆者である。ところが、もともと入市被爆者たちの証言は少ないうえに、元救護看護婦たちは表立って証言活動を行なうことがほとんどなく、1980年に発刊された証言集『閃光の影で』以外からその体験を知ることはできない。ただし、この証言集では原爆投下直後の救護体験のみが語られ、彼女たちの戦後の生活史についてはほぼ記録が残っていない。また、臨時救護所であったためか、日赤本社にも、救護活動の業務報告は残されていない。 本研究では、救護にあたった元看護婦1名から聴き取りをおこない、新興善小学校に設置された救護所が、戦後、長崎大学医学部と混成で運営されたのち、長崎大学医学部の診療所へと変遷していった状況を明らかにした。しかしながら、当時救護にあたった元看護婦は現在高齢化し、その数を減じており、これまでの証言を裏付ける他のインフォーマントや文字資料を発見することが今後の課題となっている。 なお、研究代表者は、日本赤十字看護大学史料室に保管されている卒業式での答辞の表現を、戦前から戦後にかけて経時的に分析し、救護看護婦に求められた「赤十字精神」が、社会的状況に呼応して変容したことを、戦争社会学研究会において発表した。
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