外地各地から鹿児島へ引揚げた学齢期の子どもたちは日常で共通語を使っており、鹿児島方言は彼らの理解できることばではなかった。彼らは、共通語指導が展開されていてもなお方言によるコミュニケーションが強固だった地域社会において、異質な存在である自分たちを認識し、方言と折り合いをつけていくことで戦後の地域社会に接続していこうとした。 なお、引揚げ児童たちが小学校に通っていた1950年代当時、鹿児島県の学校において共通語指導が熱心に展開されたことは先行研究でも指摘されてきた。ただし、実態としては特定の教員やグループに依存する形で進められており、必ずしも全県としての組織的活動が成立していたとは言い難い。
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