研究概要 |
芸術世界と現実世界の存在論的関係に光を当て,最終的には,芸術という営みが我々の現実の生にとっていかなる意味をもつかについて,ひとつの理解を得るというもくろみのもとに,アリストテレース『詩学』において提示された「蓋然的ないし必然的な」できごと連鎖の存在論的分際を,『弁論術』における「エンテューメーマ(蓋然的推論)」の論を参照しつつ解明するのが,本研究の目的であった. 4年間の研究で,悲劇,ひいては芸術が弁論と並行関係にあり,芸術作品が弁論におけるエンテューメーマの位置にあるものとして,盤界を蓋然的に提示するという働きをなすと言えることが明らかになった. 研究の最終段階では,この問題圏の中で浮かび上ぶってきたhybrisの問題に焦点を絞った.すなわち,『弁論術』第2巻第2章に出現するhybrisを,従来の解釈では「侮辱」ないし「暴行」ととらえていたが,この解釈では,この箇所に何度か出現するこの語を文脈に応じて幾通りにも訳し分けないと意味が通らないという難点をもつ.問題は,つまるところhybrisに悪意があるかどうかであるが,本研究は,写本伝承,前後の脈絡を精査した結果,これを悪意の伴わない「傲慢」と解釈できることを証明した.するとこれは『詩学』に言う「過ち(hamartia)」の一種であり,自分の言動が他人にいかなる恥辱を加えるかを然るべく予想しないことである.この理解の正当性は『オイディプース』の分析からも確かめられた. ここから,弁論と悲劇における言説がともに,現実盤界は基本的に理解可能であるという前提に立ちながら,架空の設定をつうじて(悲劇),あるいは蓋然的推論をつうじて(弁論),世界構造を蓋然的に写し出すものであることが了解される。芸術一般に拡張してまとめるなら,芸術作品とは,現実世界の蓋然的ひな形である.
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