研究概要 |
第二次世界大戦直後からその死去に至るまでの時期(1945年〜53年),スターリンには超大国を特徴づける世界戦略は基本的になかったということができる。この時期,東欧の「人民民主主義諸国」や中華人民共和国の誕生によって,ソ連の勢力範囲が第二次世界大戦前に比べ格段に拡大したのは事実であるが,スターリンが重視した地域,すなわち中国,朝鮮,東ヨーロッパなどに関しては,その要因をソ連の国益と安全保障の観点から説明することが可能である。スターリンがポーランド問題に関しては,英米との安易な妥協を排する姿勢を崩さなかったものの,ギリシアやトリエステに関してはさしたる関心を示さず,英米と妥協したのはその好例であろう。その意味では,スターリンの世界観は1930年代より変化がほとんどみられないといっても過言ではない。 しかし,第二次世界大戦前に比較して,唯一スターリンの世界観が拡大しつつあったのかとみられるのは,1950年以降死の直前に至るまで続くことになる,インドネシア共産党綱領問題をめぐる執着であった。スターリンがソ連の国益や安全保障にとってさしたる重要性をもつとも思われない地域に対して関心を示し,旧植民地における革命運動の道程や土地革命,統一戦線のあり方,党活動方式など普遍的なテーマを追求しつつあったことは,超大国に特有な世界戦略形成への萌芽とも位置づけられるべき内容をもっている。ただし,それは1953年スターリンの死によって明確な形をとるまでには至らなかった。さらに,インドネシア共産党綱領をめぐる問題で,スターリンがアジアにおける中国共産党との「パワーシェアリング」を志向しつつも,同党の革命路線を批判するともとれる行動に出たことは,後の中ソ対立を予見させるものでもあった。
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