研究課題/領域番号 |
17K02156
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
哲学・倫理学
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研究機関 | 岩手大学 |
研究代表者 |
音喜多 信博 岩手大学, 人文社会科学部, 准教授 (60329638)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2024-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
3,640千円 (直接経費: 2,800千円、間接経費: 840千円)
2020年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2019年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2018年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2017年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
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キーワード | 哲学的人間学 / 現象学 / メルロ=ポンティ / トマセロ / マクダウェル / 間主観性 / 看護論 / ベナー / ルーベル / ドレイファス / シェーラー / テイラー / アリストテレス / 哲学 / 倫理学 |
研究実績の概要 |
2022年度の研究においては、『知覚の現象学』(1945年)を中心としたメルロ=ポンティの現象学的人間学と、『心と世界』(1994年)で表明されているマクダウェルの思想とを改めて比較した。マクダウェルは『心と世界』において、人間の感性的経験がすでに概念化されているという「概念主義」の主張をおこなう際に、つぎのような人間学的な前提を抱いていた。つまり、人間は言語をもつことによってはじめて自己意識的な存在となり、同時に、自分の経験を越えた「客観的世界」という観念をもてるようになった。言語的存在である人間のみが、自分の感性的経験やその環境を外側から「自由で離れた態度」で眺めることができ、命題的態度によって自分の信念の真偽を問うことができる。そのことが可能であるためには、そもそも感性的レベルにおいて人間の経験は概念化されていて、命題の正当化に資することができるのでなければならない、というわけである。 一方で、私が見るところでは、メルロ=ポンティの間主観性理論や『思考の自然誌』(2014年)におけるトマセロの比較発達心理学的研究の成果は、マクダウェルの人間学的な前提に対して疑義をつきつけるようなものとなっている。つまり、メルロ=ポンティらが主張するように、言語の獲得以前の幼児において他者のパースペクティヴの理解が始まっているとすれば、他者とは区別される原初的な「自己」の意識がすでに存在することとなるであろうし、さらに、言語によってはじめて可能となる「客観的世界」以前に、その基礎となる「間主観的世界」が異なるパースペクティヴをもつ他者との間で共有されていることになる。私は、メルロ=ポンティやトマセロの立場に立つならば、人間の感性的経験と他の動物のそれとの連続性を認めるとともに、概念主義をとらずとも両者の違いを尊重できるような理論を形成できる可能性があることを明らかにした。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
2022年度においては、新型コロナウィルス感染症の感染拡大への対応のため、所属機関の教育業務や運営業務に多くの時間を割かざるを得ず、研究に十分な時間を割くことができなかった。そのため、2020年度までであった補助事業期間の延長を再度申請し、2023年度まで延長することが承認された。さらに、本年度より看護学関連の科研費課題の研究分担者となったことにより、本研究課題のエフォートを縮小させざるを得なくなったという事情も存在する。 上記「研究実績の概要」にあるように、本年度の研究の方向性は概ね年度当初の「今後の研究の推進方策」に沿ったものであったと言えるが、具体的な研究成果としては、メルロ=ポンティの思想についてのものに限定されることとなり、シェーラーをはじめとする哲学的人間学全般についての総括をおこなうまでには至らなかった。そのため、進捗状況は「やや遅れている」と評価した。
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今後の研究の推進方策 |
2022年度においては、マクダウェルとの比較の対象がメルロ=ポンティのみに限定されていたが、2023年度においては、シェーラーをはじめとする哲学的人間学の思想家全般に研究対象を拡大することによって、本研究課題全体の総括をおこないたい。特に焦点となるのは、哲学的人間学とマクダウェルのそれぞれにおける「人間学」と「認識論」との関連である。マクダウェルは、『心と世界』において、言語的な概念能力をもつ人間と他の「もの言わぬ動物」との差異を強調する。人間は言語をもつことによって自己意識的な存在となったが、そのことは、自分の経験を越えた「客観的世界」、あるいは自分の信念を越えた「真なる知識」という観念をもてるようになったことに相応する。このように、マクダウェルにおいては、彼の人間学(言語的存在という人間観)と認識論(客観的知識の探求についての理論)とが一体のものとなっていることがわかる。 自己意識の獲得と客観的知識の探究の可能性が結びついているという考え方そのものは、人間の「世界開放性」を強調するシェーラーや他の哲学的人間学の思想家たちにも共通のものであると言える。しかし、詳細については以下のような相違点が存在する。マクダウェルの議論には、「言語的概念の内か外か」という分析哲学が共有する極端な二項対立が存在する。これに対して、哲学的人間学の思想家たちは、言語的な概念化以前に客観的知識の獲得へと向かう動きが始まっていると考えている。それは、シェーラーやメルロ=ポンティにとっては現象学的な間主観性であり、カッシーラーにとってはシンボル形式の生成なのである。私はこのような観点からマクダウェルと哲学的人間学の「第二の自然」の考え方を比較し、最終的には後者の優位性を示したいと考えている。
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