研究課題/領域番号 |
17K02557
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
英米・英語圏文学
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研究機関 | 成蹊大学 |
研究代表者 |
権田 建二 成蹊大学, 文学部, 教授 (00407602)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2024-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
3,900千円 (直接経費: 3,000千円、間接経費: 900千円)
2020年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2019年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2018年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2017年度: 1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
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キーワード | 人種分離 / レイシズム / 奴隷制 / 人種関係 / 法と文学 / 人種隔離 / 人種隔離訴訟 / 英米文学 |
研究実績の概要 |
研究計画の6年目である令和4年度は、調査・収集を行うと共に、その途中の成果をまとめる予定であった。 これまでの調査では、19世紀末から20世紀前半にかけての〈分離すれど平等〉原則の法思想史的連続性を探るため、合衆国における人種分離という制度・慣習を通史的に整理してきた。具体的には、合衆国の鉄道における人種隔離を調査対象とし、 南北戦争以後から20世紀半ばにかけての合衆国南部に固有の現象だと思われていた人種分離は、ほぼ同じ形で南北戦争以前の北部においても存在しており、南北戦争以前の北部でも後年の南部と同じような、アフリカ系アメリカ人に対するレイシズムが比較的小規模であるものの存在していたこと、そして後年の南部では南北戦争以前の北部でよりも、厳密に人種間の差異を明確にする必要があったことを確認した。さらに、1830年後半から1840年代前半にかけてのマサチューセツの鉄道における人種分離の慣習とその撤廃運動に焦点を当てて、マサチューセツでは商業的鉄道が登場した初期から存在していた人種分離が廃止に追い込まれたのは、人種分離と奴隷制の間に連続性を見いだしていた奴隷制廃止論者たちの活躍のためであることを確認した。 以上を踏まえて、令和4年度では、マサチューセツの鉄道における人種分離が、特殊な事態ではなく、他の人種分離の慣習の延長にあったこと、そして結局のところはその発生に繋がったレイシズムは奴隷制に端を発することを、当時の新聞記事、とりわけ、鉄道会社による人種分離の撤廃を訴えた奴隷制廃止論者のマサチューセツ議会の公聴会での議論の分析を中心に、論考としてまとめた。 その結果、〈分離すれど平等〉原則を理解するためには、人種分離・レイシズム・奴隷制の影響の3点の相互関係を探ることが鍵になることを改めて確認するに至った。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
令和4年度は、引き続き調査・収集を行うと共に、特に前年度の成果をまとめることができた点で概ね順調であった。しかし、これは令和4年度単年で見るとそう言えるだけで、全体としては、思ったほどの成果が出せず、研究計画に遅れが生じているのが実情である。新型コロナウィルス感染症の世界的な流行が収まらなかったことに加えて、学内業務に多くの時間を割かなけれならなかったことが、その主な理由である。大学のアドミッションセンター長として、令和3年度は、新型コロナウィルス感染症に対応した入試体制、また令和4年度においては、令和7年度から始まる新課程入試の準備に関わることとなったため、まとまった研究時間の確保が困難であった。 しかし、南北戦争以前のマサチューセツの鉄道での人種分離とそれが撤廃されるに至る経緯を、人種分離を行う企業およびそれを支持するマサチューセツ議員と人種分離に反対する奴隷制廃止論者たちの間の論争を丹念に追って確認することで、奴隷制と人種分離の間に連続性があることを発見できたのは大きな成果だった。また、その過程で19世紀前半のマサチューセツの人々にも見られた人権意識および平等という概念が、今日のわれわれが知る人権・平等概念に形を変えるのは20世紀になってからであったことを確認できたのは次につながる大きな進展だった。
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今後の研究の推進方策 |
令和5年度は、北部(マサチューセツ)と南部の人種分離が決定的に違うのは、奴隷制と人種分離の間に連続性を認めるか否かという点にあることを検証したい。 このため、マサチューセツの鉄道での人種分離の是非を巡る議論におけるレイシズムとその批判を1880年代のテネシー州の人種分離法及び1896年のプレシー判決の背後にあるそれらとを比較したい。マサチューセツで1830年代後半には一般化していた複数の鉄道路線での人種分離は、奴隷制廃止論者が議会に対して働きかけたことによって撤廃された。この時、奴隷制廃止論者には、黒人に対するレイシズムが奴隷制と不可分であるという認識があった。一方後年の人種分離には、人種分離と奴隷制の間の連続性を否定しようとする力学が働いていると考えられる。1883年の公民権事件で合衆国最高裁判事ジョゼフ・P・ブラッドリーが判決文で述べた、議会が奴隷制を廃絶したり再発を防止するための法律を制定する権限があるとはいえ、個人が例え人種に基づいたとしても、諸個人を区別する行為全てにその権限を当てはめるのは、「奴隷制の意味を広げすぎだろう」(109 U.S. 3, 17 [1883] ) ということばはこれを裏付けるものだろう。 人種分離を奴隷制の印として認めないことで、人種分離は19世紀末から20世紀半ばまで存続した。今年度の調査ではこれを検証するとともに、このような合衆国最高裁の態度が変わるきっかけとなった1938年のキャロリーン・プロダクツ判決の脚注4に注目し、20世紀の合衆国最高裁が経済的な規制よりも、人権の保護をより重視することになったこと、19世紀では経済活動の自由がむしろ優先されていたことが、19世紀の人種分離を特徴付けていることを確認したい。
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