研究概要 |
工部大学校電信科は、高等教育レベルの世界最初の電気工学科であり、最初期の日本の電気技術者を養成した.同学科(1884年に電気学工学科と改称)はこのように歴史上で重要な位置を占めるが,そこで実際にどのような教育が行われたかはほとんど知られていない.本研究では,明治期の工部大学校電信科の入学生・学生・卒業生という人の面からアプローチし,工部大学校電信科で行なわれた教育を評価した.まず,工部大学校になぜ電信科が設置されたか,日本側の必要によるものか,それともトムソン(ケルビン郷)の要請によるものか,といった問題を論じた.工部大学校電信科入学生の前教育と工部小学校の史料を収集した.電信科において学生が受けた教育の実態と卒業生のキャリアの例として,藤岡市助と三宅順祐をとりあげた.岩国市徴古館・学校教育資料館と協力して,同館蔵の藤岡市助関係資料の整理・調査を行ない,一部分(工部大学校電信科における藤岡の講義ノートほか)をマイクロフィルム化した.藤岡は白熱舎(今日の東芝のルーツのひとつ)を設立して炭素フィラメント白熱電球を国産化した.実際にその仕事を担当したのは,三宅順祐である.彼は,工部大学校電信科の卒業論文で炭素フィラメント電球の試作をおこなっており,これが白熱舎での彼の仕事につながったと思われる.三宅の卒業論文(1888年)に続いて,本研究では,彼の実習報告(同年)および志田林三郎卒業論文(1879年),中野初子卒業論文(1881年),岩垂邦彦卒業論文(1882年),丹羽正道卒業論文(1887年)ほか(いずれも英文手書き)をワープロ入力してトランススクリプトを作成した.これらマイクロフィルムとトランススクリプトは,工部大学校電信科における教育の実態を示す史料として今後の研究の有力なツールになるであろう.
|