本研究の目的として、大きく3つの課題を設定していた。すなわち、(1)鎌倉期延暦寺の集団訴訟の実態とその歴史的意義、(2)世俗権力との関わり、(3)宗教的側面の構造の解明である。平成19年度は、前年度に行った(1)集団訴訟に関して、(2)(3)の要素を踏まえて文章化した。 鎌倉期の延暦寺は、治承・寿永の内乱を経て如何に変化したかということを踏まえる必要がある。というのも、平安末期の平氏政権期には、通説的に南都寺院とは異なり"平氏寄り"だとされた延暦寺が、鎌倉幕府の成立によってどのような武家対策をとったかということが重要になってくるからである。そこで延暦寺大衆は、悪僧排除の励行を装う堂衆の排除を断行したが、それによって比叡山全体での結合(=「満山」)が可能となった。「満山」という全体が生み出す決議は、当時の社会においては一定の正当性を有したから、世俗社会からもその行動(それが「閉門」という強訴の一種であっても)は認められることとなった。 しかしながら、既に院政期段階で内部に様々な矛盾や対立を抱え込んでいた延暦寺大衆は、「満山」という全体性を常時継続することは出来ず、かえって理想的な「満山」からはみ出さざるを得ない小集団を生み出すことになる。彼らが鎌倉後期比叡山に頻発する「閉籠」の主体となったのではないかと考えられる。 鎌倉後〜末期の比叡山にみられた混沌とした状況は、中世後期に向かって寺院が頽廃していく過程ととらえられることもあったが、本研究では、これを幕府成立に関連して生み出された平和への対応と、それによって排除された集団運動として把握し、寺院大衆の問題としてとらえ直した点に意義があると考える。
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