研究概要 |
古墳時代前期の畿内において,古墳における土器祭祀は,特殊器台・壺を配置するもの(箸墓古墳)と,二重口縁壺を配置したもの(茶臼山古墳)とに分かれる。前者は吉備地域からの伝播で説明されているが,後者が畿内で発生したものか,東海地方から伝播したものかを検討した。 墳墓祭祀に用いられた二重口縁壺は,底部を穿孔するという特徴を持つ。弥生時代以降,近畿地方では墳墓祭祀に用いた土器に穿孔を施すものが多いが,ほとんどが胴部下半に入れられ,底部穿孔が盛んになるのは久宝寺遺跡22号墓,加美遺跡14号墓の資料からうかがえるように布留式期古段階からである。 一方,東海地方ではそれに先行する廻間I式期に,底部穿孔の土器を墳丘上に置く祭式が成立している。西上免遺跡前方後方墳では底部穿孔した加飾壼(パレス壺)が墳丘上に置かれ,廻間遺跡前方後方形周溝墓でも,加飾壺が周溝内から出土している。畿内に先行して東海地方において底部穿孔の壺を用いる祭祀が成立しており,それが前方後方墳の伝播とともに畿内にもたらされ,加飾壺が二重口縁壺に代替されることで,二重口縁壺を用いた墳墓祭祀が確立したとみられる。東国最古の古墳とされる長野県弘法山古墳では,主体部上から二重口縁壺と加飾壺,手焙形土器,椀形高杯などが出土している。これらを実見したところ,加飾壺(パレス壺),手焙形土器は東海地方,二重口縁壺は畿内北部,椀形高杯は畿内の土器の影響が看取された。弘法山古墳に見られる畿内と東海地方の複合的な土器のあり方は,二重口縁壺を用いた土器祭祀の成立過程を反映したものと考えられる。
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