舞台美術、舞台装置と呼ばれる職掌が誕生した時期の舞台制作過程を、大道具に携わる当事者たちの言説を中心に調査、整理し、1900年代初頭、大道具制作に生じた変化や混乱を確認することにより、「定式」が意識されるようになった背景を考察した。 歌舞伎の大道具は現在でも決まった型の「定式大道具」が使用されるが、「定式」は必ずしも近世以来の不変の伝統ではないことは見過ごされがちである。劇界外の文学者や西洋画家などの美術家たちが舞台制作に関わり始めた明治末年から大正時代、彼らの参入により、それまで「定式」という言葉で表す必要すらなかった形式が、歌舞伎の特徴として意識されるようになったと考え、これを裏付けるため、まず「定式」ということばが江戸の劇書でどの程度使用されているかの調査を行った。管見の限り歌舞伎の幕内の様々な特徴や習慣を記した劇書類には定式という語は見られず、明治期に記された演劇雑誌の記事についても、「定式物」を「定式」という言葉とともに説明しているものが稀であることが確認できた。 また新作脚本の大道具が制作される過程について、脚本家、狂言作者、舞台美術家、大道具方がそれぞれ担当していた範囲を、坪内逍遥作『桐一葉』(明治37年3月東京座)の例を中心に整理した。この時期の西洋画家による舞台の背景画についての先行研究はあるが、大道具方への視点は本研究独自であり、劇界外からの参入者による、狂言作者や大道具方の職掌への影響や、実際の作成過程における画家と大道具方との分業を、演劇雑誌の記事を丹念に拾い、明らかにできたことは一定の成果であると考える。また、劇場建物の拡大、明治15年の劇場取締規則布達による劇場数の急増も大道具の仕事への影響という観点から大きな変化であったこと、従来の座付の大道具方がいない劇場の新設により、劇界外のスタッフが、劇場に入るきっかけになったことを指摘した。
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