研究課題/領域番号 |
19520241
|
研究種目 |
基盤研究(C)
|
配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
ヨーロッパ語系文学
|
研究機関 | 鹿児島大学 |
研究代表者 |
竹内 勝徳 鹿児島大学, 法文学部, 教授 (40253918)
|
研究期間 (年度) |
2007 – 2009
|
研究課題ステータス |
完了 (2009年度)
|
配分額 *注記 |
1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2009年度: 520千円 (直接経費: 400千円、間接経費: 120千円)
2008年度: 260千円 (直接経費: 200千円、間接経費: 60千円)
2007年度: 390千円 (直接経費: 300千円、間接経費: 90千円)
|
キーワード | ナサニエル・ホーソーン / ハーマン・メルヴィル / 西洋思想 / アメリカン・ルネッサンス / アメリカ文学 / 『白鯨』 / イマニュエル・カント / ジョン・ロック / ホーソーン / エマソン / メルヴィル / ソロー / ヘーゲル / カント / ヨーロッパ思想 / 英米文学 / ホーソン |
研究概要 |
本研究の主な研究成果として、日本アメリカ文学会の研究誌である『アメリカ文学研究』第46号に掲載された「"Clap eye on" Captain Pe(g)leg/Ahab-メルヴィルによる『白鯨』の原稿修正と反ナショナリズムの衝動」、並びに、日本英文学会の研究誌である『英文学研究』に投稿中の「アメリカン・ダイアレクティクスの行方」が挙げられる。前者では、デカルトによる精神と身体=「モノ」の二項対立がエイハブというキャラクターにどのような形で取り入れられているのかという発想から、メルヴィルのテクスト創作が文章という「モノ」に対する不安定な対応であり、その表れとして『白鯨』の原稿修正が位置づけられるとする前提を設定した。これを前提に、『白鯨』の修正が当時の政治状況と密接な関係において展開しており、メルヴィルは母国アメリカの民主党イデオロギーから脱却するために、当初のピークォド号の船長Peglegから片足の船長という役柄をエイハブに移したと論じた。この片足の扱い自体がメルヴィルの身体=「モノ」に対する不安定な対応、並びに、テクストに対する不安定な対応を表している。即ち、デカルトの精神論では解決できない身体=「モノ」の存在論的な重さにメルヴィルは気付いていたのである。後者の論文では、カントからショーペンハウエル、ヘーゲルと続く西洋思潮の流れに、エマソンやソロー、ホーソーン、メルヴィルの思想を対置し、特にホーソーンとメルヴィルを総合的に比較したものである。カントにとっての現象は主体の内面の反映であり、「モノそれ自体」は成立しない。これはエマソンやホーソーンにも共有された現象観である。だが、ホーソーンはへスター・プリンとパールの姿によって、欲望や罪の象徴となりながらもその精神現象としての存在から離脱しようとする客体を描いた。メルヴィルが『白鯨』において共感したのはこのような精神の反映となりきれない客体、上述の言葉で言うと身体=「モノ」の諸相であった。しかしながら、ホーソーンはそうした不気味な「モノ」としての客体に気づきながらも、ヘーゲル流の弁証法によってその領域からの発展的脱却を図る。一方のメルヴィルはその領域へ囚われることの根源的な魅力に取りつかれている。彼らそれぞれの最終小説作品、『大理石の牧神』と『ビリー・バッド』にみられるのは、現実を精神の反映として捉えきれない主人公が弁証法的に成長するか、あるいは、元の領域に留まったまま美を表現するに至るかの、その大きなギャップである。メルヴィルのビリーが後者に該当するのは言うまでもない。精神の主体的な働きに還元することなく美が立ち現れる様は、ベルグソンの言う記憶の創造作用を思わせる。
|