戦後の日本で使われてきた「現代美術」という語は、時代区分、様式、手法によって確定されるものではないが漠然とした価値概念を含んでいる。「現代美術」は、普通名詞ではなく、敗戦後10年ほどして生まれ、展開し、そして消えつつあるひとつの領域を指す、固有名詞なのではないだろうか。 各公募団体が内部審査を行ない、ヒエラルキーを再生産する制度が画壇だとしたら、1950年代初めにそこから脱して自由な活動を行おうとする動きが生まれた。ふたつの日本アンデパンダン展(1947年〜、日本美術会主催)・(1949年〜63、読売新聞社主催)と、タケミヤ画廊(1951年〜57年に瀧口修造がキュレーター役を務める)に代表される、画廊での発表が、反画壇運動の場だった。これらが「現代美術」領域の揺藍である。 一方「現代美術」草創期に重要な役割を果たしたメディアとして、『美術批評』誌を挙げねばならない。同誌は、美術批評の刷新と反画壇・美術界変革を意図した編集方針を持ち、数々の論争を仕掛けると同時に、美術批評の新人たちを輩出した。彼らは同誌上で画壇外の新人作家たちを対象に、同時代的なリアリティを見い出し、評価を与えるて「現代美術批評」とも呼ぶべきものを生み出した。画壇外での発表の場所が確保され、それが美術ジャーナリズムの批評対象になって公認されたことで、「現代美術」領域が成立したと言える。それはいわば、作家と批評の新人たちの共同作業だった。 『美術批評』誌でデビューした針生一郎、東野芳明、中原佑介、大岡信、ヨシダヨシエらは、その後の現代美術批評を半世紀にわたって担う中軸となった。彼らが評価した作家たちが「現代美術作家」なのだともいえる。「現代美術作家」は市場および画壇の外側にある作家たちだったが、「現代美術批評」が評価を支えた。 この背景には、国際展に出品できるようになり、同時代の海外作品と同等に認められねばならないという、戦後初めて出現した状況があった。世界標準の「近代」性が前提になると、新潮流を輸入し学習する、戦前的な批評スタンスの無効さがあらわになり、画壇的内部審査では作品選定の機能が果たせないことがはっきりする。こうして内部的審査に内向する画壇と海外動向に敏感な「現代美術」は並存するようになった。 「現代美術」を生み出したのは、反画壇意識をもち、海外美術との同時代意識を持とうとした美術関係者の、言説空間の共有であったと考えられる。
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