研究課題/領域番号 |
19K00367
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02020:中国文学関連
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
伊藤 徳也 東京大学, 大学院総合文化研究科, 教授 (10213068)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
3,640千円 (直接経費: 2,800千円、間接経費: 840千円)
2023年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2022年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2021年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2020年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2019年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
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キーワード | 生活の芸術 / フェアプレー / デカダンス / 人情物理 / 周作人 / 魯迅 / 日本文芸 / 太宰治 / 審美現代性 / 「野草」 / 「私の失恋」 / 徐志摩 / フーコー / 武田泰淳 / 松本清張 / 「或る『小倉日記』」 / 世界文学史 / 竹内好 / 徒然草 / 楊逸 / 審美 / 現代性 / 生の技法 / 現代中国 / 中国 / 美 / 現代 / モダニティ |
研究開始時の研究の概要 |
現代中国における日本文藝の影響を、「審美現代性」(目的性のない近代化衝動)という概念を切り口にして分析する。文革までは合目的的な近代化衝動が優勢で審美現代性を抑圧してきた中国社会が、文革後、都市民を中心に、その抑圧を緩めるに至った。その過程には日本文藝の中国への紹介と受容が深く関わったのではないか。この仮説を、具体的な事例を提示することによって実証しようとする研究である。
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研究実績の概要 |
理論的な面では、「生活の芸術」というコンセプトに焦点を当てて、審美現代性のあり方を探った。 ・「生活の芸術」論を支える重要な要素として、審美現代性の一種である自己目的的で享楽的な衝動(H・エリスはそれをデカダンスと呼んだ)があるが、それは、ラテン語arsによって表示された全体性を持った広義の芸術全般から、科学や狭義の芸術(美術)が独立してきた社会文化のmodernization(エリスはそれをdecadenceとも呼んだ)と波長を共にすることを確認した。それと、M・ウエーバーの言う「目的合理性」との間には共通性があることを指摘した。 ・国民革命時期の1920年代中ばに魯迅等によってフェアプレーを巡る論争が起きたが、フェアプレーという社会文化形式とその精神はまさに「生活の芸術」のコンセプトを体現していることを指摘した。 ・「生活の芸術」論は結局のところ生活と芸術の接近・融合を求めるので、中庸概念を引き寄せやすいことを指摘した。 ・1920年代に日本の生活文化に生活の芸術が色濃く残っていると言った周作人が1930年代に展開した「人情物理」論とその用語例に対する分析をさらに修正・整理し、「人情物理」論と「生活の芸術」、合理性、中庸との関係を素描した。 具体的現象として他に注目したのは2000年代の中国における太宰治ブームである。それまでほとんど注目を浴びてこなかった太宰治が2008年の「人間失格」翻訳以降特に90年代生まれの若者に爆発的に読まれるようになったが、太宰を訳した古い世代の文潔若が太宰の消極性を否定的に見たのと正反対に、ネガティブな自己像と消極的な社会性を特徴とする「喪文化」の担い手の若者たちは、太宰のテキストに自己像を読み込んだ。大雑把に言えばこれもやはり日本文芸が現代中国社会の審美現代性の触媒になった好例と言えよう。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
元来考察すべき対象が多く広範囲にわたっているため、点描するだけならはさほど難しくはないが、最終的な研究成果としてどのように整理しまとめて論述するかという点が非常に難しく、また、理論的な探究においては、合理性やシステムと言った深く考慮すべき概念が重要なポイントして浮上してきたため、研究全体をどのようにまとめるとよいのか苦慮している状態である。
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今後の研究の推進方策 |
最終的な研究のまとめに苦慮しているが、時間があれば、問題はないと考えている。現代中国において日本文芸が中国人の審美現代性の触媒となった事例については、きりがないので、結局のところ中間発表的なものになるしかないと腹をくくるつもりである。理論的な探究は、難しいとは言え、極めて興味深い作業なので、期限までに何らかの形で結果は出せるものと考えている。
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