研究課題/領域番号 |
20K00286
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02010:日本文学関連
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研究機関 | 新潟大学 |
研究代表者 |
錦 仁 新潟大学, 人文社会科学系, 名誉教授 (00125733)
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研究分担者 |
山本 章博 上智大学, 文学部, 教授 (70733955)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2024-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
2,860千円 (直接経費: 2,200千円、間接経費: 660千円)
2022年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2021年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2020年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
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キーワード | 歌枕 / 俳枕 / 名所の新規設定 / 藩主の領内巡覧 / 藩撰・私撰地誌 / 旅日記 / 巡見使 / 歌枕の名所づくり / 藩主の和歌活動 / 幕府派遣の巡見使 / 巡見使の旅日記 / 中世・近世の歌枕集 / 歌枕・名所 / 地誌 / 紀行・旅日記 / 諸藩の文学活動 |
研究開始時の研究の概要 |
東北各地の公的図書館・博物館・資料館と古文書を所蔵する個人を訪問して、歌枕・名所・俳枕に関する従来の研究では未調査であった資料・記事を多数発掘し、精細な検討を加え、新しい研究成果を提示する。 特に東北地方の各藩がそれぞれ独自に藩内に歌枕の名所を設定していたこと、そして地誌に明記させ、藩士や中央の歌人に和歌・俳諧・漢詩を詠ませて各種の作品集を編纂していたこと、つまり各藩独自の文学活動の実態を解明する。 併行して、旅人として訪れた歌人・連歌師・俳人・詩人たちの紀行文や幕府派遣の巡見使の書き残した旅日記などを発掘し、これまで知られてこなかった歌枕・名所の実態を明らかにする。
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研究実績の概要 |
本年度は、山形県庄内藩における歌枕関連の古文書および幕府巡見使や文人藩士たちの書いた旅日記の発見に努め、翻字して解読と内容分析に力を注いだ。とりわけ庄内藩の文人藩士が書いた旅日記をいくつか発見し、翻字と内容分析を行った。すなわち、鶴岡→羽黒山→日本海沿岸の街道→象潟へと旅をし、その途中、歌枕「板敷山」「恋の山」「鼓滝」「阿古屋の松」「古畑」「有耶無耶の関」などの歌枕とその名所を歌に詠んで旅日記を書くという文芸行為が成立していたことを明らかにすることができた。 それは芭蕉の「奥のほそ道」の逆コースになるが、帰りは正コースを歩くのだから矛盾するわけではない。この往復コースは、鶴岡・酒田から象潟までの広角眺望を一枚物の刷り物にしたものが広く流布していたことからも、庄内藩の文人藩士たちの間に流行していたことがわかる。 このコースに数多くの歌枕があるが、庄内藩の著名な女性歌人、杉山廉はそれらの多くは地元の人々が勝手に作り上げた歌枕であって、正しいものではないと批判している。しかしそれでも地元の人々のもてはやすところとなり、後世へ伝えられてきたことを明らかにした。こうした事情は東北諸藩に共通している。 また、秋田から青森県へ旅した菅江真澄の旅日記を分析し、歌に詠まれ挿絵に描かれた歌枕・名所を、実際に現場に行って観察して現実の風景と比較検討してみた。同時に、真澄と同じときに幕府巡見使に随行し蝦夷に渡った古川古松軒の旅日記の挿絵として描かれた歌枕・名所についても比較検討をしてみた。 そのほか盛岡藩の歌枕・名所に関する政策がよくわかる「名所追考」の補正版や「名処順道記」を翻字・分析して、仙台藩の誇る歌枕を盛岡藩の歌枕・名所であると主張する理由と名所作りの方法を明らかにした。藩主利視の指示のもと藩士の清水秋全が苦労して書き上げたこれらの書物が盛岡藩の歌枕・名所を証明するものとなった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究の開始以来、調査旅行をして収集してきた資料(旅日記。巡覧記。歌枕の解説書その他。いずれも東北地方の諸藩および民間において作成されたもの)が蓄積されてきた。それらの中から特に分析の価値のある資料を厳選し、翻字して内容分析を進めてきた。そのうち秋田藩の歌枕(俳枕でもありうる)とその名所作りに関しては、これまでの研究で分析をほぼ終えた。また、仙台藩に関してもほぼ分析が終わった。今年度は盛岡藩に焦点を合わせて実行してきた。さらに、庄内藩の西行伝説に関する資料を発見し、伝説形成の時期・理由・遺跡化等について研究分担者が積極的に挑戦して成果をあげた。 そのほか、巡見使に随行した古川古松軒の旅日記のうち、東北に関する記事を翻字し、その内容分析を進めている。その挿絵については、現実の風景と比較検討する作業を進めている。 コロナ禍が長く続き、思うように調査旅行ができなかったが、研究成果をあげるべく研究分担者と協力して進めつつある。 残っているのは、福島藩、相馬藩その他であるが、これらの藩についての研究作業は科研費の受給期間中に足がかりをつけておきたいが、本格的には期間が終わってから始めることになるかもしれない。それらの作業・考察が大方終わってから、本研究の全体をまとめて著書等を刊行したい。
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今後の研究の推進方策 |
盛岡藩(=南部藩)の歌枕・名所に対して、どのような態度・方策を実行していたかを明らかにする。この作業をさらに続ける。たとえば「末の松山」は仙台藩領内の多賀城のそれが宗久の「都のつと」を出すまでもなく中世から全国的に認知されてきたのであるが、盛岡藩では二戸市の「波打ち峠」を「末の松山」であり平安期以来、和歌に詠まれてきたと主張している。すなわち、藩主南部利視の指示により清水秋全は仙台藩が自藩の歌枕としている多くの歌枕について、それらはすべて盛岡藩のものであると主張している。当時の権威ある歌枕の案内書である「和歌名所追考」を入手し、仙台藩の歌枕について書いている記事の余白に、それは間違いであること、盛岡藩内に証拠となる場所(名所)があることを詳細に書き記している。 しかし、こうした主張が仙台藩に聞こえて、仙台藩と盛岡藩の関係がすこぶる悪くなったというようなことはなかった。本居宣長は「玉勝間」において、こうした歌枕・名所に関する世間の流行を批判し、好い加減な名所作りに荷担・関与してはならないと厳しくいさめている。だが世間の常識とはならなかった。反対に松平定信は、古くからそう伝えているのであれば、その国の歌枕・名所として認めてもよい、と「花月日記」の中で述べている。定信流の考え方が一般に浸透していたのである。宣長のような考え方は少数派であった。ここに歌枕とその名所づくりの問題点がある。 二つの考え方があることを押さえつつ、各藩の歌枕・名所に対する方策のありかたを比較検証していく。なにゆえに他藩の歌枕・名所と知られているものを自藩のものだと主張するのか。それほどにしてまで、なぜ自藩に歌枕・名所が必要なのか。このことを考えつつ、各藩の営みを明らかにしていく。
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