研究課題/領域番号 |
20K00318
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02010:日本文学関連
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研究機関 | 慶應義塾大学 |
研究代表者 |
合山 林太郎 慶應義塾大学, 文学部(三田), 准教授 (00551946)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
4,290千円 (直接経費: 3,300千円、間接経費: 990千円)
2024年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2023年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2022年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2021年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2020年度: 1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
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キーワード | 漢学 / 文人 / 稿本 / 私塾 / 東アジア / 漢文脈 / 上野戦争 / 日本漢文学 / 名詩 / 教育 / アンソロジー / 漢字文化 / 教養 / 志士 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究では、政治家や実業家、軍人など、様々な領域の人々の漢詩文作品、あるいは漢詩文を作るという行為について検討し、明治の漢文文化の総体について考察してゆく。また、新聞や雑誌などを網羅的に調査し、彼らの作詩・作文行為の基礎データを収集するとともに、自筆資料などを参照することによって、漢詩文を通じた人々の思想や心情の表出についても詳細に読み解いてゆく。このほか、政治家らと専門漢詩人や漢学者らとの交流をも明らかにし、明治・大正漢詩壇の動向について立体的に捉えてゆく。以上の事柄から得られた知見を、社会や文化についての理論などを参照しながら分析し、国際的・学祭的に共有可能な理解なかたちで記述する。
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研究実績の概要 |
研究計画に基づき、次のような調査を行った。①二松学舎大学に寄贈された大沼枕山・鶴林関係資料(典籍、文書、書簡、書幅、印など)を網羅的に調査し、枕山・嘉年(枕山の娘)、鶴林(枕山の女婿)らの伝記や交友関係について考察した。文書(詩文稿)に関しては、筆写者や制作年代の特定を試みた。典籍については、書入れを集中的に検討した。とくに、荷風の「下谷のはなし」(後、『下谷叢話』『改訂下谷叢話』などへと増補改訂)に対する楠荘三郎(鶴林と嘉年の娘ひさの夫)の書入れを精査し、荷風の枕山理解と大沼家の人々の枕山に対する認識との差異について分析した。②新出資料である「五山堂詩社課題」(菊池五山の詩社における課題表)や天保14年(1843)前半の大沼枕山の詩稿について読解・翻刻した。その上で、「五山堂詩社課題」については、五山の伝記や彼の周辺にいた漢詩人の詩作の状況を参照しつつ、記された内容について考証した。天保14年の枕山の詩稿については、詩篇から読み取ることのできる若年期の枕山の事跡及び交友の実態について検討しつつ、あわせて、刊本『枕山詩鈔』との間の異同を明らかにした。③江戸後期の蘭医であり、適塾の塾主である緒方洪庵が、弟子らに与えた書幅について考察し、制作の背景や、揮毫された言葉の内容について分析した。④漢詩人森槐南とその弟子である宮崎晴瀾や野口寧斎らについて、明治前期の事跡を追うとともに、森鴎外の文学活動との関わりについて考察した。⑤和歌などの日本の詩歌において重要な題材であった萩の花が、漢詩文においてどのように詠われてきたかについて、とくにその呼称、すなわち、萩の花の漢名の問題に着目しながら、古代から近世までの作例を通覧しつつ考究した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
上記の「研究実績の概要」に記した調査から、次のような成果を得た。①二松学舎大学へ寄贈された資料を目録化した。また、楠荘三郎による「下谷のはなし」への書入れの内容から、枕山の伝記についての新情報を明らかにした。さらに、海江田信義と大沼鶴林との関係、柳瀬勁介や石川文荘らと大沼家との関係について、資料から具体的に跡づけた。なお、楠荘三郎の書入れは、海江田信義の回想録である『維新前後 実歴史伝』にも確認できるが、ここには、柳原前光や東久世通禧らが詩を枕山に学んでいたことが記されている。このことから、明治期の貴顕と枕山との結びつきを、積極的に評価しようとする荘三郎の姿勢が看取されると論じた。②「五山堂詩社課題」に掲載される月毎の課題について、閏月の位置や、牧野黙庵の詩集などとの題の一致などから、文化14年(1817)から天保7年(1836)、同11年(1840)、12年(1841)のものであると推定した。また、天保14年の詩稿からは、同年、枕山が、房総などを遊歴しつつ、武井節庵や鱸松塘などと交流する様を明らかにした。③緒方洪庵の周辺において、書幅を書き与えることが、学修についての営みの一部として行われていたことを確認するとともに、洪庵の書幅に記された言葉の一部が、市川米庵編『墨場必携』など、近世期に刊行された揮毫のための言葉を集めた書籍に収録されたものと一致することを指摘した。④森槐南とその弟子たちの間の中国小説・戯曲愛好の具体相を明らかにした。その上で、彼らの文学活動を併置することにより、鴎外の作品や鴎外周辺の人々の動向が、より鮮明に理解されると論じた。⑤近世前期の儒者林鵞峰による、萩の花の漢名が不明であると論じた議論を紹介し、萩の花を取り上げる際、漢詩文特有の難しさがあったことを指摘した。近世中期以降、「胡子花」や「天竺花」などが萩の漢名として流布したことを述べた。
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今後の研究の推進方策 |
前年度までに得た知見を踏まえつつ、以下のように進める。①明治期から昭和前期にかけての漢詩文と政治やメディアとの関係について、とくに読者の側の反応を視野に入れつつ、分析を行う。具体的には、新聞雑誌に掲載された漢詩文への応答の記事や詩文を整理し、重要なものについて読解する。また、明治期の社会的な事件について、漢詩文がどのように描いたかを、同じ題材を扱った、他ジャンルの作品と比較しながら検討する。②江戸時代後期からの漢詩文の潮流を踏まえつつ、大沼枕山や森春濤・槐南父子をはじめとする幕末・明治期の漢詩人の活動について考察する。詩集や新聞雑誌に加え、日記など、これまで注目されていない資料を用い、彼らの多様な人的ネットワークについて把握する。③日本漢詩の国外での受容についての近年の研究を参照しながら、江戸・明治期の漢詩が東アジアにおける文化交流の中で、どのように読まれ、いかなる役割を果たしたかについて検討する。④詞華集に加え、韻書や類書、また、揮毫のための名言名句集などを参照しつつ、漢籍に関する知識が、近代日本の社会にいかなるかたちで浸透し、活用されたかについて考察する。また、近代における和刻本の流通状況などを追い、漢文の知識の基層が形成される過程について、総合的に分析する。⑤前年度までの作業を継続し、明治期以降の政治家の漢詩についての読解や、新聞・雑誌などにおける漢詩欄や漢詩人関係の記事についての情報を収集する。今年度は、とくに『東華』などの昭和期以降の漢詩雑誌に関するデータ整理と内容の把握を重点的に行う。なお、江戸時代後期の大名の文化圏と明治期以降の漢詩文の世界との関わりについても検討を開始する。
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