研究課題/領域番号 |
20K01008
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分03030:アジア史およびアフリカ史関連
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研究機関 | 立命館大学 |
研究代表者 |
佐々 充昭 立命館大学, 文学部, 教授 (50411137)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
4,160千円 (直接経費: 3,200千円、間接経費: 960千円)
2023年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2022年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2021年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2020年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
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キーワード | 大イ宗教 / 羅喆 / 培材学堂 / 全徳基 / 周時経 / 朝鮮語学会 / 朝鮮光文会 / 檀君ナショナリズム / 檀君教イ布明書 / 南道本司 / 言語ナショナリズム / 大イ宗教(檀君教) / 孫秉煕 / 金教献 / 柳瑾 / 金木斗奉 / 檀君教 / 重光 / ハングル |
研究開始時の研究の概要 |
植民地朝鮮において、朝鮮人学者たちの間で朝鮮語の近代的体系化を通じた言語ナショナリズムが展開された。その主体となったのが朝鮮語学会である。一方、大イ宗教は1909年2月に独立運動家の羅喆によって創設された宗教団体であり、朝鮮民族の始祖とされる檀君を精神的求心点とする民族独立運動を展開した。本研究では、日本の天皇制イデオロギーの対抗言説として創出された檀君ナショナリズムが、朝鮮人学者たちによる言語ナショナリズムを牽引する原動力であった事実を明らかにする。
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研究実績の概要 |
今年度は、周時経に関する研究成果を論文にまとめて公刊した(「近代朝鮮語学の開拓者・周時経の宗教遍歴-大イ宗教との関係を中心に」『立命館言語文化研究』第35巻2号、2024年1月)。周時経はキリスト教メソジスト(監理教)系の私立学校である培材学堂に入学した後、1896年に独立新聞の会計兼校補員となり国文同式会を組織した。1900年に培材学堂を卒業する際にキリスト教の洗礼を受けている。その後、周時経は尚洞教会で活動していた全徳基牧師の影響を受けてキリスト教系の民族運動に関与し、同教会内で国語講習所(国語研究学会)を立ち上げて近代的な朝鮮語文法の体系化を試みた。 しかし、1909年2月に独立運動家の羅喆に檀君教(翌年、大イ宗教に改称)が創設されると、周時経はその趣旨に賛同して信者となった。本稿では周時経の宗教遍歴に関して、もともとキリスト教徒であった周時経がどのような事情で大イ宗教に改宗したのか、その経緯と理由について解明した。また周時経が残した資料の中から大イ宗教に入信していた事実を示す部分を抜粋し、大イ宗教が唱導した檀君ナショナリズムが周時経の朝鮮語研究にどのような影響を及ぼしたのか明らかにした。さらに本稿では、従来の「ハングル命名者論争」の論点を整理しながら、1910年代の朝鮮光文会における大イ宗教の関与という新たな視点から、ハングル周時経命名説について検証を行った。 その他、『歴代韓国文法大系』(金敏洙、高永根編)に収録されている諸資料の調査を行い、李奎栄、金木斗奉など周時経から直接的な影響を受けた朝鮮人学者の言語思想に関する研究を行った。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
今年度までの研究を通じて、朝鮮語学会の設立経緯について明らかにした。その内容をまとめると以下の通りである。 大イ宗教に入信した周時経は、1910年の韓国併合後、海外亡命を試みるが1914年に急死する。周時経の弟子たちの多くは大イ宗教に入信し、1910年代において金木斗奉を中心とする朝鮮光文会の朝鮮語辞典編纂事業に従事した。三・一運動の後、周時経の門下生で大イ宗教徒であった張志暎・李秉岐らによって1921年徽文義塾内(大イ宗教南道本司幹部の柳瑾が塾長)に朝鮮語研究会が組織された。1920年代における朝鮮語研究会の活動は、京城に設けられた大イ宗教南道本司の活動と連携して展開された。朝鮮語研究会は1926年に「カギャの日」を定め(1928年に「ハングルの日」と命名)、1927年に同会の機関誌として『ハングル』を創刊した。 同会は1931年に朝鮮語学会と改称し、朝鮮語辞典の編纂と綴字法の統一に力を注いだ。朝鮮語に関する当時の学界は正音派とハングル派に分かれていた。「訓民正音」の伝統継承と「表音主義」を唱えた朴勝彬は、1931年に朝鮮語学研究会を組織した。一方、朝鮮語学会は、周時経が提唱した「形態主義」を継承し、それまで停刊されていた機関誌『ハングル』を1932年に復刊して第1号とした。朝鮮総督府における朝鮮語綴字法の審議過程に朝鮮語学会の会員が多数抜擢されたために、1930年の朝鮮語綴字法統一案では「ハングル派」(朝鮮語研究会)の立場が採択された。審議委員14名中7名(張志暎、李世貞、権悳圭、鄭烈模、崔鉉培、申明均、沈宜麟)は大イ宗教の信徒、またはその影響圏にある人物であった。 以上の研究成果については次年度に学術論文として公開する予定である。
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今後の研究の推進方策 |
研究の最終年度となる次年度は、これまでの研究成果を学術論文にまとめて公刊する予定である。現時点において、1930年代から1940年代までの時期における大イ宗教と朝鮮語学会との関係について未整理の課題が多く残っている。次年度は特に李克魯と崔鉉培の二人の活動に着目して研究を進めていく。 大イ宗教は1919年中国上海で大韓民国臨時政府(以下、臨政とする)が組織されると、その背後支援団体として抗日独立運動を展開した。李克魯は、大イ宗教徒であり臨政の幹部であった申圭植が提供した奨学金でドイツへ留学し、ベルリン大学哲学科を卒業した。その後、朝鮮に帰国し、朝鮮語学会の主力メンバーとなった。李克魯が加入して以降、朝鮮語学会は以前にも増して活発な活動を展開するが、会員の証言によると、その背景には抗日独立運動団体からの秘密資金の流入があったとされている。 一方、崔鉉培は1910年から3年間、普成学校内の朝鮮語講習院で周時経から朝鮮語文法を学び、大イ宗教にも入信した。1926年に『東亜日報』紙上に連載された『朝鮮民族更生の道』を通じて、周時経および大イ宗教の檀君思想が崔鉉培の人格形成に深い影響を与えたことが確認できる。その後、崔鉉培は朝鮮語学会の創立に参画し、1933年の朝鮮語綴字法統一案の制定に尽力した。 1942年の朝鮮語学会弾圧事件において朝鮮語学会の会員および関連人物が次々と検挙された。この時の裁判で李克魯は最も重い懲役6年を宣告され、崔鉉培は次に重い懲役4年を宣告された。二人はいずれも大イ宗教の幹部であり、朝鮮語学会の核心メンバーであった。李克魯と崔鉉培の活動を精査することで、大イ宗教と朝鮮語学会との連携が朝鮮民族独立運動の遂行にあった点を明らかにする。
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