韓国蔚山の士族である鶴城李氏家門の展開過程を、代々居住する地域(世居地)である蔚山地域の史料から明らかにするため、この間、ソウル大学校奎章閣において17世紀後半~18世紀の蔚山府戸籍大帳を多数複写する一方、現地蔚山では、家門の協力を得ていくつかの派や(派内の)小派の世居地を回り、また門中の機関誌により現在世居地とされている地区を確認した。その分析結果および課題は以下の4点である。まず、鶴城李氏の各派の名称は、家門初の大同譜編纂(1668)後に(その主要部分または全体が)居住していた面の名称に由来することが、戸籍大帳により確認できた。次に、戸籍大帳と族譜をクロスして居住地の動きをみると、18世紀を通じて面内の他里に移動する系統・邑内の他面に移動する系統・行方不明になる系統とさまざまであった。蔚山府戸籍大帳があまり多く残存していないことを考えると、行方不明になっている系統も蔚山邑内で移動している可能性が強いが、漢城など邑外に移動している可能性も否定できない。第三に、派内の小派については、17世紀後半の大同譜編纂直後にすでに集住している場合もあれば、18世紀初頭または半ばに他の里に入郷することでその始まりを確認できる場合もあった。そして最後に、鶴城李氏は18世紀には家門全体として始祖李藝を顕彰する動きを始める。李藝を祭る祠廟の建立と移建・文集の編纂・謚号を受けるための謚状の請求がそれであるが、それぞれにかかわる主体となる派・小派は特定できず、その都度異なった。その原因としては、戸籍大帳や郷案などからは十分に読み取れない経済的要因が考えられる。他氏(士)族との婚姻関係の解明とともに、当面の課題である。族譜や文集といった家門の史料だけでなく、戸籍大帳や郷案など地域の史料を用いて、韓国の士族家門の展開を派のレベルまで解明しようとする点が、本研究の意義である。
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