研究課題/領域番号 |
21K00453
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02050:文学一般関連
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研究機関 | 新潟大学 |
研究代表者 |
藤石 貴代 新潟大学, 人文社会科学系, 准教授 (20262420)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2024-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
3,640千円 (直接経費: 2,800千円、間接経費: 840千円)
2023年度: 910千円 (直接経費: 700千円、間接経費: 210千円)
2022年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2021年度: 1,690千円 (直接経費: 1,300千円、間接経費: 390千円)
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キーワード | 国民文学 / 新地方主義 / 愛国詩 / 長篇叙事詩 / 浅井十三郎 / 金鍾漢 / 藝術科 / 詩と詩人 |
研究開始時の研究の概要 |
新潟の詩人、浅井十三郎(本名:關矢與三郎 1908-56)が戦前・戦後を通じて刊行した詩誌『詩と詩人』(1939-57 通巻117号)および、浅井が敗戦後いち早く発刊した『現代詩』(1946-50 通巻37号)は、戦後日本の詩壇を牽引した詩人たち(『荒地』の鮎川信夫、『列島』の長谷川龍生、等)を輩出した。戦地・植民地における支配と服従、暴力と殺戮の記憶の形象化は、長篇叙事詩という形態でこそ可能だったのであり、また、それゆえに忌避された。両誌の検討を通じて「外地」の詩人・文学運動とのつながりを明らかにする。
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研究実績の概要 |
本研究の目的は、新潟の詩人、浅井十三郎(本名:關矢與三郎 1908-56)が戦前・戦後を通じて刊行した詩誌『詩と詩人』(1939-57 通巻112号)および、敗戦後の焦土でいち早く発刊された『現代詩』(1946-50 通巻37号)の検討を通じて、同時期の朝鮮半島の詩人および文学運動とのつながりを明らかにすることである。2022年度は浅井十三郎の次男(以下「次男氏」と記載)にお会いし、未見であった『新日本詩鑑』第一輯(詩報発行所、1938年11月)および肉筆原稿「九月詩選」(400字詰め原稿用紙一枚)、『現代詩人住所録(非売品)』(詩と友情社、1940年)等を閲覧するとともに、幼少期の思い出を伺うことができた。たとえば、戦後日本詩史において「荒地」と並び称される「列島」(1952-55)同人の長谷川龍生(1928-2019)が並柳の浅井宅にひと月にわたり滞在(居候)したことを書き残しているが(「浅井十三郎の幽霊」『詩学』1962年4月号)、次男氏は確かに長谷川を記憶していた。同じく、後に「列島」同人となる湯口三郎(1923-55)も浅井宅2階に寄宿していたことを証言された。湯口は『詩と詩人』93号(1950年5月)および『氷河期(「詩と詩人通信」改題』)を編集している。 併せて、魚沼市並柳区長より浅井作詞の「広神行進曲」(『村づくり』通巻2号、1955年10月25日発行)を提供いただいた。1955年3月に新潟県北魚沼郡広瀬村と薮神村が合併して広神村となり、村会議員に選出された浅井は多忙を極めたが、期せずしてその約1年半後に急逝した浅井の晩年の生き様が、関根弘『青春の文学』(三一新書、1959年)に記されていることも確認できた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
浅井十三郎の伝記的事実については、浅井の親族・同級生などに直接取材した小田大蔵「プロレタリア詩人浅弘見―浅井十三郎研究(1)―」(『新潟大学国文学会誌』第22号、新潟大学国文学会、1979年1月)および、新潟県内発行の膨大な新聞・詩誌を渉猟した鈴木良一「戦争期の詩人たち〈2〉」「新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たち―<3>」『北方文学』第62号、第69号(玄文社、2009年6月、2013年1月)等の先行研究に多くを負っている。今回、浅井十三郎子息との面談および新資料により、若干を補完できた。たとえば、『文章倶樂部』(1953年9月号)所収「現代詩特集」に浅井が寄せた近況により、浅井作詞「新潟市立亀田中学校校歌」(1953年9月1日制定)を発見した。また、『現代出版文化人総覧(昭和23年版)』(日本出版協同株式会社、1947年)により、筆名以外の別号「雑草堂」を確認した。『詩人年鑑』1928年版(アルス)には「無花果(淺弘見)新潟縣南魚沼郡關」と記されており、浅井が関郵便局在職中に「浅弘見」名で同人誌『無花果』を発行していた事実を再確認した。
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今後の研究の推進方策 |
新型肺炎感染防止に関わる図書館利用制限の緩和・解除に伴い、『詩と詩人』の全巻調査を再開する。 浅井は生前最後の詩集となる『火刑台の眼』(詩と詩人社、1949年)を佐藤清(詩人、京城帝国大学英文科教授)に献呈しているが、上京していわゆるプロレタリア詩を書いていた浅井(浅弘見)が「朝鮮」と接点を持つ契機として推測される内野健児(筆名:新井徹 1899-1944 植民地下の朝鮮半島で詩誌『耕人』『亜細亜詩脈』等を発行した)との文学的交渉の有無を調査する。 戦争期には、同人の出征や移住により、同時代の朝鮮半島や中国大陸(「満洲」含む)での「愛国詩」「国民詩」運動への共感と連帯意識が誌面に現れるが、それが戦後の「長編叙事詩運動」に接続される様相を明らかにする。
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