研究課題/領域番号 |
21K01847
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分08010:社会学関連
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研究機関 | 同志社大学 |
研究代表者 |
竹内 幸絵 同志社大学, 社会学部, 教授 (40586385)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
4,030千円 (直接経費: 3,100千円、間接経費: 930千円)
2024年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2023年度: 520千円 (直接経費: 400千円、間接経費: 120千円)
2022年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2021年度: 1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
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キーワード | 広告史 / デザイン史 / 歴史社会学 / ヴィジュアルメディア研究 |
研究開始時の研究の概要 |
テレビCM放映は1953(昭和28)年に始まったが、「昭和30年代」に入った当初は戦前からの技術的・人的蓄積があったグラフィック広告界が隆盛し、テレビCM界の地位は低かった。しかし当該10年の後半に至って広告メディアとしての両者の社会的地位は転倒する。この現象は、テレビCMを中心に起きた「見て理解する」から「感覚的に受け入れる」への視覚性の画期であったと思われる。本研究は今日の視覚メディアの原点としても重要な本現象を、大量の実広告資料、関係者の聞き取り、雑誌などの周辺資料をもとに多角的な視座から検証し解明を目指す。同時に成果をもとに、メディアの視覚性を歴史認識に取り込む方法論の構築を検討する。
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研究実績の概要 |
2年目は、1、基礎調査研究を引き続き実施しつつ、2、本研究が射程とする昭和30(1955)年前後の日本の広告の視覚性にどのような変化が起き、それが何を要因としていたのか、その社会的・文化的要因についての考察にとりくんだ。具体的には1、で得た成果、すなわち制作者らの証言、雑誌・新聞など当時のメディアに残された広告に対する評価や価値意識の表明、広告に関連するイベント情報の原資料などを重要な証左とし、これと実際の広告(紙媒体、電波媒体)の様態、その変化をあわせて検証した。このような従来の研究にはなかった広告の視覚性の特質を視野に収めた研究手法により、以下の成果を得ることができた。 今年度の成果は大きくは二つある。一つは、(一)昭和35(1960)年代後半から台頭し広告界に新風を吹き込んだと評価される広告制作者、石岡瑛子の制作活動と広告を、活躍した場の社会的地位、制作時の実態、そして制作された広告そのものに即して考察したものである。 二つ目の成果(二)は、昭和35(1960)前後の広告界の矛盾、すなわち広告効果としては既に下位にあった紙媒体の制作者の社会的地位と、広告効果の面で既に最重要視される存在であった電波媒体の制作者の社会的地位が逆転していた事実にかかる調査・検証・考察である。これは本研究の最大のテーマである。本年度はこのテーマに対し、1960年代の中盤まで継続したこの矛盾が、昭和43(1968)年を境に修正されていく事実を捉え焦点化し、研究を深めた。その転換には一部の愛好家にのみ好まれていた実験映画と呼ばれた映像制作のコミュニティと、テレビ・コマーシャルとの関連が指摘出来た。以上の二つの成果はいずれも、戦後の広告表現及び視覚文化の変遷をたどるうえで重要かつこれまで見過ごされてきた史実と考える。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
基礎調査研究で初年度コロナ禍のため調査予定箇所の複数において調査が出来ない事態が発生したが、2年目でこれらをほぼ実施することができた。調査により予想を超える豊富な資料が所蔵されていた調査個所については調査完了とはならず、3年度に持ち越しとなった。 昭和30年代の広告の視覚性にかかる多角的な考察については、初年度の二つの成果に加え、今年度は発表と論文1本、投稿中で未掲載論文1本としてまとめることができた。 また文章化した成果以外に、基礎資料群と古書資料の詳細な突合により、当該時期にテレビ・コマーシャルの演出を数多く手がけていた映画監督、大林宜彦が制作したコマーシャルを同定し、大林を通した映像芸術潮流とテレビ・コマーシャルとの連続性、またそれが日本国内でどのような反響をもたらしたかについての考察に着手することができた。 以上のように当研究は順調に進展している。
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今後の研究の推進方策 |
当初の「研究の目的」「研究実施計画」から大きな変更はないが、2年間の調査・研究を終えた現時点で、射程とする期間を「昭和35年」を軸として、昭和45(1970)年ごろまでと置く必要性を認識している。これによる基本的な推進方策への影響はない。
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