研究課題/領域番号 |
21K11566
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分59030:体育および身体教育学関連
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研究機関 | 福岡大学 |
研究代表者 |
柿山 哲治 福岡大学, スポーツ科学部, 教授 (10255242)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2024-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
4,160千円 (直接経費: 3,200千円、間接経費: 960千円)
2023年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2022年度: 1,430千円 (直接経費: 1,100千円、間接経費: 330千円)
2021年度: 1,560千円 (直接経費: 1,200千円、間接経費: 360千円)
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キーワード | 青山女学院 / ハリエット S アーリング女史 / シカゴ大学 / アモス・アロンゾ・スタッグ / 青山女学院校友会誌 / 運動会順序 / バスケットゴール / 日本 / 女子体育 / 長崎活水女學校 / マリアナ・ヤング女史 / アメリカ |
研究開始時の研究の概要 |
本研究は、これまで誰も問い直してこなかった、わが国へのバスケットボール移入の定説について、女子体育の観点から言及し、男子に先駆けて女子でバスケットボールが導入されたという仮説を検証する。もし、1908(明治41) 年に東京YMCA に大森兵蔵がバスケットボールを紹介する以前に、導入していた人物、場所、内容が特定できれば、定説を覆すことになり、バスケットボール移入に関する新しい学説が日本体育史に刻まれるに違いない。また、明治期に男子に先駆けてチームスポーツであるバスケットボールが女子で導入されたことが証明されることにより、女子体育の創成経緯について新たな問い直しの必要性を投じる契機となり得る。
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研究実績の概要 |
青山女学院に1902(明治35)年に導入されたバスケットボールについて、アメリカ人女性宣教師とバスケットボールの接点について調査を行った。青山女学院史によるとアーリング女史はニューヨーク州アスウェゴ市立師範学校を卒業後、米国で高等小学校教諭を経て、明治20年から25年まで東京英和学校教授、27年から3年間清流女学校校長、明治30年より青山女学院で英語、倫理及び体操担当と記載されていた。また、青山学院資料室所蔵のアーリング女史の写真にはシカゴの写真館名が記載されているものの、日本に残されている経歴書からは彼女とシカゴの接点が不明であったが、英名がHarriet S. Allingであること、1887年にキリスト教の宣教師として来日し、6年間東京に滞在。1893年に万国博覧会のために帰国し、1894年7月2日までシカゴ大学で1年間特別研究を行った後、再び日本に戻っていたことが明らかとなった。 一方、YMCA国際トレーニングスクールでネイスミスがバスケットボールを創案した時に同僚で助言をしていたアモス・アロンゾ・スタッグ(以下、スタッグ)教授が、1892年から1933年までシカゴ大学の初代体育局長兼フットボールコーチ、1933年から1946年まで太平洋大学のフットボールコーチを務めたことが明らかにされている。そこでシカゴ大学図書館アーカイブセンターで、アーリング女史とスタッグ教授との接点を求めて調査に臨んだが、アーリング女史は研修生で学生ではなかったのでそこでの履修科目等の記録が現存していなかった。しかしながら、スタッグ氏は自身の姉妹に宛てた1892年5月10日付の手紙で、「ネイスミスがバスケットボールと言うスポーツを創案し、このスポーツは女子でも容易にできる」と紹介していることが判明した。しかしながら、現時点で両者の接点について明らかにすることはできなかった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
コロナ禍での海外で出張であったが、成果発表ができたことと、少しコロナが落ち着いた後に、海外で調査が可能となり、予定していた史料収集が順調に行えたため。 また、青山女学院史に掲載されているアーリング女史の経歴の不足分が、シカゴ大学の図書館司書の協力により、補うことができたため。
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今後の研究の推進方策 |
青山学院資料センターには所蔵されていないアーリング女史の経歴に関する史料が発掘でき、彼女が一時帰国中の1893年に1年間シカゴ大学で研修生となって授業を受けていたことが判明し、彼女がシカゴ大学でバスケットボールに接したと言う仮説を、シカゴ大学とスプリングフィールド大学所蔵史料から発掘し、活水女學校にバスケットボールを導入したマリアナ・ヤング女史と合わせて、2人のアメリカ人女性宣教師とバスケットボールの接点がYMCA由来である可能性について言及する。また、バスケットボールを日本に最初に紹介したのは大森兵蔵であるという定説を覆すために、大森兵蔵が最初では無かった史実を集約し、我が国へのバスケットボール移入史を再構築する。
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