明王朝の滅亡後、清朝は、再三にわたる「文字獄」を行うなど、漢人知識人に対してきびしい姿勢で臨んだ。漢人知識人の屈折した意識は、詩作品、あるいは詩学(詩の解釈学)の場において、きわめて隠微な形であらわれる。そんな状況のもと、清初の時期には、杜甫の詩についての選集、注釈、批評などが数多く生みだされた。本研究では、当時の人びとが好んで杜甫の詩を取り上げた理由などの分析を通じ、清王朝の支配という事件が、当時の文人たちにどのような影響を与えたのかを明らかにすることを目指した。この研究にあたり、主として着目したのが、明末清初を生きた冒襄とその周囲にいた文人たちであった。冒襄自身の詩作を見ると、そこにはしばしば杜甫の詩に和韻を試みた作を見ることができる。例えば冒襄の「感懐七歌倣杜少陵体」は、杜甫の「乾元中寓居同谷県、作歌七首」に和韻した作である。同谷県にあって杜甫がいかに生活に苦労したかを詠じた詩であるが、冒襄の作にも同じように、明清王朝交替期の苦労が投影されている。また、冒襄が友人たちと唱和して作った詩でも、しばしば杜甫の詩への和韻が行われている。例えば、杜甫が宴席の場面を詠じた「陪鄭広文遊何将軍山林」詩に、冒襄をはじめとする数名の文人が和韻した「庚寅春杪辟疆同于皇孝威園次枉集寓園用少陵遊何将軍山林韻八首」などである。また、冒襄が書いた散文においても、しばしば杜甫の詩が引用され、そこにみずからの状況を重ね合わせようとする意図がうかがわれる。冒襄の周辺にあった女性たち、董小宛、呉扣扣など、いずれも杜甫の詩と関連があったことも、発見の一つである。
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