研究課題/領域番号 |
22K00498
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02050:文学一般関連
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研究機関 | 桃山学院大学 |
研究代表者 |
高田 里惠子 桃山学院大学, 経営学部, 教授 (30206768)
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研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2027-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
1,820千円 (直接経費: 1,400千円、間接経費: 420千円)
2026年度: 260千円 (直接経費: 200千円、間接経費: 60千円)
2025年度: 260千円 (直接経費: 200千円、間接経費: 60千円)
2024年度: 520千円 (直接経費: 400千円、間接経費: 120千円)
2023年度: 390千円 (直接経費: 300千円、間接経費: 90千円)
2022年度: 390千円 (直接経費: 300千円、間接経費: 90千円)
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キーワード | 安倍能成 / 野上彌生子 / 大正教養主義 / 夏目漱石 / 旧制第一高等学校 / 北軽井沢大学村 / 魚住影雄 / 中勘助 / 戦後教育改革 / 戦後の学習院大学 / 魚住折蘆 / 岩波文化 / 戦後高等教育改革 |
研究開始時の研究の概要 |
近代日本における二つの変革期を日露戦争前後および太平洋戦争前後と定めて注目してみると、この二つの変革期に密に関わった人物として安倍能成という哲学者が浮かびあがってくる。 「煩悶青年」安倍能成はやがて大正教養主義の書き手として世に出る。太平洋戦争中には旧制第一高等学校を軍部から守りぬく校長となり、そして敗戦直後の文部大臣として戦後の学制改革にたずさわった。さらに冷戦時代、安倍は平和問題談話会議長として日本の講和問題に取りくむ。 本研究は、未だ詳細な研究がなされていない安倍能成についての伝記的記述をとおして、大正昭和のエリート文化の諸相と、その背景となった社会的・政治的状況の変化を描く。
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研究実績の概要 |
予定どおり、安倍能成と同時代の作家や文化人の著作、特に私的なものである書簡と日記を中心に繙読をすすめた。その際、安倍能成の数多い雑文類を含む著作との対応を意識し、安倍の伝記的事実と照らしあわせながら読みすすめていった。これは、当該の課題「安倍能成の伝記的記述をとおして描く大正昭和の文化と政治の諸相」のために欠かせない作業である。というのは、戦災によって、安倍の戦前の日記やメモ類が失われているので、他の資料との照らしあわせが必要になっているからである。今回は野上彌生子と中勘助(安倍の一高同級生、また彌生子の初恋の相手とも言われている)の資料に絞りこんで読んでいった。 とりわけ野上彌生子の膨大な日記は安倍能成研究の一級資料である。また、2023年度に古書店より入手できた、安倍能成の野上彌生子宛て葉書16通(野上家の北軽井沢別荘に保管されていたもの)や、他の安倍能成研究者が所蔵する、野上彌生子宛て書簡は研究をすすめるうえで重要であると思われる。こうした書簡や日記などの資料や、愛媛県生涯学習センターに保管されている、安倍能成の未発表原稿「野上やえ子さんと私」(『婦人公論』に掲載予定だったが、内容が中傷的なものであったためボツとなった)を分析しながら、能成と彌生子の、他者からは「喧嘩するほど仲の良い親友」と見なされていた奇妙な関係性を、論文「純粋をめぐる闘い――安倍能成と野上彌生子」(桃山学院大学総合研究所『人間文化研究』第19号掲載)において描きだした。当論文では、互いに半ば本気で半ば冗談のように繰りだした批判もしくは悪口のなかに、「純粋性」への志向、「純粋な才能」への憧れを見てとり、それを大正教養主義の特徴の一つとして理論づけようと試みた。 このように、安倍の伝記的事実、特に同時代の作家らとの関わりをとおしてその時代の文化的状況を描くという研究方法を今後も模索していきたい。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
安倍能成には、著作に収められていない膨大な雑文や対談・座談会、政府関係資料(文部大臣や貴族院議員を務めたため)が存在している。そうした資料の収集と整理に、引きつづき努めているが、考えていたより多くの未収録雑文があり、やや遅れている状況と言える。また、研究をすすめていくにつれて、いままで注目していた同時代の作家たちや、一高・帝大の同級生(中勘助、阿部次郎、魚住折蘆、岩波茂雄、山田又吉、藤原正、上野直昭)に加えて、森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎などの漱石門下にも目を配る必要性を感じはじめている。特に、森田草平との関りはそれほど重要ではないと考えていたが、森田が漱石との親密な関係性を強調するのにたいし、安倍がそれに反発するかのように漱石との関係の薄さを強調していることに気づき、改めて森田の日記などに注目したいと考えている。この部分は新しい着目点であるが、文献探索などの方向性はすでに定まっている。 やや滞っているのは、安倍の京城帝国大学時代の日記やメモといった手書き文書の判読である。これは安倍能成と朝鮮総督府との関係を浮かびあがらせるという点でとりわけ重要なものであると認識しているが、まだあまりすすんでいないというのが現状である。 進捗が比較的順調なのは、野上彌生子の資料の探索と繙読、及び安倍能成の生き方に大きな影響を与えたと思われる魚住影雄に関する資料収集である。引きつづき、国会図書館、日本近代文学館、その他の図書館での資料探索を行なう予定である。大正教養主義が求めた「純粋性」の構図を提示することを当面の課題としているが、まずは安倍能成と野上彌生子との関わりを描くことで、ある程度この課題を達成できたと思っている。この課題をさらに深掘りするために、次に魚住影雄を取りあげる予定だが、その準備作業が進行中である。
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今後の研究の推進方策 |
今年度に論文としてまとめたいのは、安倍能成と家族との関係である。とりわけ、早逝した長男を中心とする家族関係に注目する。興味深いことに、安倍能成の一高時代の友人の息子たちもまた、ちょうど同じ年頃であったため、親しく付きあうようになった。つまり、「大正教養主義二世」と呼んでいいようなグループがあった。この集まりの形成に貢献したのは、北軽井沢の「大学村」という別荘地である。「大学村」は、安倍の一高同級生である野上豊一郎と、その妻野上彌生子の呼びかけによって、当時の「ブルジョア・インテリ」層が集まる場所となった。現在でも作家や文化人の特権的別荘地として知られる「大学村」の歴史や特徴とともに、「大正教養主義二世」の姿を描きだしたい。 第二に注目するのは、この息子世代の学生時代が昭和初期のマルクス主義の席巻期にあたっていることである。マルクス主義の流行が大正教養主義の衰退をもたらすわけだが、これはそのまま親子間の対立にあらわれる。この対立に注目することで、大正教養主義の、いままで見えなかった性質をあぶりだす。 さらに、安倍能成と父親との関係(これは、安倍の、自身の息子にたいするありようにも影響を及ぼしていくのだが)、安倍能成と兄弟との関係を、漱石門下たちと漱石との関係、漱石とその息子たちとの関係とからめて考察することを計画している。漱石を大正教養主義の一つのルーツ(「父」)として改めて浮かびあがらせながら、大正教養主義における「父」的なもの、「息子」的なものを提示する。 このように新しい視点から、今後の教養主義に関する研究に貢献できるかたちで、資料の整備をすすめ、論文等を執筆していくことを検討している。
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