研究課題/領域番号 |
22K00903
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分03020:日本史関連
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研究機関 | 京都先端科学大学 |
研究代表者 |
平 雅行 京都先端科学大学, 人文学部, 客員研究員 (10171399)
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研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2026-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
3,250千円 (直接経費: 2,500千円、間接経費: 750千円)
2025年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2024年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2023年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2022年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
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キーワード | 在俗出家 / 悪人往生 / 専修念仏 / 顕密系浄土教 / 善導 / 法然 / 明恵 / 諸行往生 / 浄土教 / 女院 / 法皇 / 臨終正念 / 後醍醐天皇 / 聖天供 / 出家入道 / ジェンダー / ライフサイクル |
研究開始時の研究の概要 |
9世紀中葉に臨終出家の風習が天皇家から始まり、院政時代には、出家後も家督を保持して俗権を振るう在俗出家が出現する。この習俗は白河法皇・平清盛・足利義満のような権力者だけでなく、貴族・武士から百姓にまで広く流布した。そして在俗出家の宿老が、朝廷・幕府、町・村・家の基幹部分を担っている。これは世界史的にみて希有な歴史事象であり、日本中世に特有の習俗である。 そこで、本研究では、(ア)在俗出家が登場した歴史過程、(イ)在俗出家を支えた顕密系浄土教の思想、(ウ)女性の在俗出家の実態および在俗出家のジェンダー差、の3点を検討することで、在俗出家をうみだした日本の中世社会・中世仏教の特質を明らかにしたい。
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研究実績の概要 |
①拙稿「顕密系浄土教と専修念仏」(『興風』35、400字詰原稿用紙換算103枚)を発表して、本年度予定の最大の課題を達成した。そして、以下の②~④を明らかにした。 ②9世紀中葉より、極楽往生を願って出家する習俗が貴族社会で盛行した。院政時代になると、家督を保持した在俗出家が流布するようになり、朝廷・幕府から町・村に至るまで在俗出家が満ちあふれた。村落史研究者によれば、14世紀の民衆的世界では3割前後の百姓が出家していたという。 ③在俗出家は専修念仏が登場する以前から出現しており、また専修念仏は往生のために出家することに宗教的価値を認めていない。以上から、在俗出家が顕密系浄土教に立脚していたことがわかる。つまり顕密系浄土教は広汎に受容され、中世社会に絶大な影響を及ぼしていた。 ④法然は自分の考えはすべて善導の教えそのものだと主張した。そのため、日本の善導受容は法然を中心に語られることが多い。しかし善導は観想念仏も勧め、諸行往生も認めていた。そして平安時代の顕密仏教の世界では、善導をもとに悪人往生論が蓄積されて常識となっていた。さらに、鎌倉時代には明恵・貞慶・良遍・無住など顕密系浄土教の論者は、専修念仏を善導の歪曲と非難した。顕密系浄土教は善導教学をその内部に包摂しており、その善導観は貴族や武士にも広く流布していた。専修念仏は善導観においても少数派であり、むしろ顕密系浄土教の善導観が社会的に優位にあった。中世浄土教の本流が顕密系浄土教であったことは、この点からも裏付けられる。 ⑤このほか拙著『鎌倉時代の幕府と仏教』を刊行し、(1)北条氏で僧侶となった者64名の事跡を明らかにし、圧倒的多数が顕密僧となったことを実証した。また、(2)後醍醐天皇が在俗の身で伝法灌頂をうけて幕府調伏祈祷を行ったことを明らかにした。これらはいずれも在俗出家の展開を考察する歴史的前提となるだろう。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究計画では、本年度は2つの課題を遂行することになっていた。(1)出家に価値を認める言説や、善導の影響をうけた言説・事跡を補足的に蒐集して、顕密系浄土教の実態を考察する。(2)在俗出家に関する多様な事例を蒐集整理する。このうち、(1)の課題については、多くの事例を蒐集して、拙稿「顕密系浄土教と専修念仏」(『興風』35)に発表した。なかでも下記①~③の指摘は重要であるはずだ。 ①顕密系浄土教は専修念仏を善導の歪曲と批判したが、鎌倉末になると法然門下もそれに同調するようになる。性仙道空の著『選択集述疑』は、10点にわたって『選択集』が善導を逸脱していると批判したが、この事例は顕密系浄土教の思想的圧力の強さを示唆している。 ②浄土宗西山派の尽力によって、後嵯峨上皇の中陰(1272年)より、善導の六時礼讃・法事讃が王家の中陰仏事で実修されるようになった。ただし、そこでは顕密僧が主導する法華経の供養・転読が中心であって、六時礼讃・法事讃は添え物であった。この事実は、王家における善導受容が「昼の法華経、夕の念仏」という顕密系浄土教に基づいていたことを示している。 ③『平家物語』によれば、大原の建礼門院の庵室では、善導像とその著書を右に安置し、普賢菩薩像と法華経を左に安置している。この描写は彼女の善導信仰も顕密系浄土教の典型として造型されたことを物語っており、鎌倉中期には善導信仰がファッション化していたことを示している。 (2)在俗出家に関する事例蒐集は順調に進んでいる。ただし、十分な精査はできていないが、在俗出家が認められたポストについて、その歴史的経緯が具体的に判明する史料にまだ巡りあえていない。足利義満による出家強要に抵抗できずに、管領斯波義将が出家したことが在俗出家の管領が誕生した経緯であるが、それ以外の官職についてはこのような具体的経緯が判明しない可能性もある。
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今後の研究の推進方策 |
研究計画によれば2023年度は、(1)顕密系浄土教についての論文執筆、(2)在俗出家の事例蒐集の2つが課題であった。(1)については、顕密系浄土教が中世浄土教の主流であったことを示す論文を発表して課題を達成した。 (2)の史料蒐集については、(a)在俗出家の准后・関東申次・知行国主・本家・領家の事例、(b)在俗出家の目代・在庁官人・下司・公文・郡司・郷司の事例、(c)在俗出家の管領・評定衆・引付衆・守護・地頭・奉行人の事例を蒐集することを課題とした。ただし、十分な精査はできていないが、これらポストについて在俗出家が認められるようになった具体的経緯が判明する史料にまだ巡りあえていない。管領については、足利義満の意向によって在俗出家の管領が誕生したことが判明しているが、上記(a)~(c)のポストについては、こうした具体的経緯が判明しない可能性が高い。院政時代の法皇の登場が、官職を保持した在俗出家の登場に大きな影響を与えたと予想されるが、最悪の場合、こうした推測の補強程度で終わる怖れもある。 当初の研究計画では、24年度は(a)~(c)の補足的収集と、在俗出家の成立過程の考察、および女性の在俗出家の史料蒐集を予定していた。在俗出家の成立過程の検討を今しばらく続けたいが、その解明が困難と分かれば、第三の研究課題である女性の在俗出家の実態解明に集中したい。その場合、(d)出家した女院の活動事例、(e)出家した女性が朝廷・幕府から叙位任官された事例、(f)出家した女性の活動実態が判明する事例を蒐集することになる。出家した女性の事例は膨大に存するが、出家の前後における活動の異同、出家後の活動実態については、ほとんど先行研究が存在しない。それだけに、第三の研究課題に早めに切り替える方が、学術的成果が大きくなるとも考えられる。
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