研究課題/領域番号 |
22K02268
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分09010:教育学関連
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研究機関 | 同志社大学 |
研究代表者 |
越水 雄二 同志社大学, 社会学部, 准教授 (40293849)
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研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2026-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2022年度)
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配分額 *注記 |
4,160千円 (直接経費: 3,200千円、間接経費: 960千円)
2025年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2024年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2023年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2022年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
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キーワード | キリスト教学校修士会 / ジャン=バティスト・ド・ラ・サール / フランス教育史 / 近代学校教育 / 民衆教育 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究は、ジャン=バティスト・ド・ラ・サール(1651-1719)と彼が1684年に創設した「キリスト教学校修士会」による学校教育に関する思想と実践を、単なるカトリック教会勢力の教化活動と見なすのではなく、ブルジョワ層による民衆教育を通じた社会改革運動と捉える観点から、フランス革命期を経て1820年代へ至るまで解明して、それらがフランス近代学校教育の形成に与えた影響を考察する。
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研究実績の概要 |
キリスト教学校修士会(以下、修士会と略記)の思想と実践を考察するため、本年度は、同会の設立からフランス革命期へ至るまでの活動の経緯を辿って、注目点を検討した。 ラ・サールが中心となり1680年代に発足した修士会は、彼が亡くなる1719年までに、最初の慈善学校を設立したランスをはじめ、パリを含む国内22都市で、貧民を対象に無償で読み書きとキリスト教を教える学校を同一の方針に従って運営するまでの発展を遂げた。その方針は、ラ・サールが生前に執筆していた『キリスト教学校の指導方針』が1720年に公刊されて確実な共有が可能になった。修士会が1720年代前半にフランス国王とローマ教会から相次いで認可されると、同会の学校は1730~1740年代に国内各地の都市に次々に設けられ、18世紀前半段階でその数は79都市へ達した。 修士会がフランス革命までに国内100都市以上に及ぶ初等教育の学校網を築いていた史実は夙に知られてきた。ただし、上述の通り、それは1750年以前にほぼ構築されていた点が改めて注目される。というのも、そうした実態が、1760年代以降に活発化した公教育をめぐる議論の背景となっていた。1763年にレンヌ高等法院の検事長ラ・シャロテは『国民教育試論』で、民衆へ読み書きを教える修士会の学校が社会秩序を台無しにすると指弾した。彼によれば、「社会の福祉は、民衆の知識がその職業以上に広がらないことを求めている」。このような民衆教育観から、修士会の活動が危険に見られたのである。 修士会の学校が体制側司法官の貴族から危険視されていた史実は、従来の教育史において、アンシァン・レジーム期の〈小さな学校〉と総称される教育機関が、従順で勤勉な民衆の形成を目指した体制順応の教育の場と見なされてきた点に再考を促す。民衆教育の代表的な担い手へ成長した修士会の思想と実践をさらに探り考察していきたい。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
キリスト教学校修士会の思想と実践を探る基本史料の第一は、創設者ラ・サールの著書とされる『キリスト教学校の指導方針』(以下『方針』と略記)である。本研究は『方針』の内容の確認と検討を、これまでのところ以下のように進めている。 『方針』は、ラ・サール没後の1720年に刊行されたが、彼は1690年代後半に最初の原稿を書いており、生前には会士たちがそれを筆写して参照していた。「1706年手稿」の序文でラ・サールは『方針』が3部構成になると述べた。第一部は「学校の全課業と登校から下校までに行う全業務」を扱い、第二部は「学校に秩序を設けて保つために教師が用いるべき必要かつ有益な方法」を示す。第三部は「第一に学校の監督者の職務。第二に新任教師の指導者が専心すべき世話と実践。第三に、教師が獲得し備えるべき性質と、学校の職務を果たすために守るべき指針。第四に生徒が遵守すべき事項」である。つまり第三部の執筆構想は、前半で校長の職務方針を示し、後半には校長も含む全教師対象の内容に加えて生徒へ向けた内容も盛り込む予定であった。 ところが、1720年の『方針』初版本は、表紙に「2部構成」と掲げて、第三部を含まなかった。『指針』が「1706年手稿」の序文通りに3部構成で刊行されたのは、先行研究によれば、ラ・サール没後に18世紀後半の会士による改訂を経た1811年版が最初であったと言う。ただし1993年刊のラ・サール『全集』では、第三部が「学校監督者の職務」と題されて4章構成になっており、それには「1706年手稿」の序文に記された、新任教師の指導に関する内容などが含まれていない。そこで、本研究では現在、修士会の思想と実践を考察するために、『全集』所収の『方針』だけではなく、1811年版に基づいて1819年にリヨンで刊行された3部構成の『方針』も史料に用いて、内容の確認と検討を進めている状況である。
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今後の研究の推進方策 |
フランスの近代史研究者ベルナール・ウールは、ラ・サールの著作とそれに関する先行研究の綿密な分析に基づいて、現在最も信頼に値する伝記研究を2019年に発表した。ウールはラ・サールの思想の全体像については新たな解釈の提示を試みているが、その彼によっても、1680年代の設立から1719年にラ・サールが亡くなるまでの時期の修士会による学校教育の実態は、教師や生徒によって遺された史料が存在しないので解明が困難であるとされる。この指摘を踏まえてもなお、キリスト教学校修士会の「思想」だけではなく、本研究の題目にも掲げている「実践」についても探っていく今後の方策は、次のように考えられる。 本研究は、ラ・サールの著作とされてきた、1720年刊行の『キリスト教学校の指導方針』の内容を確認し検討する作業を中心に進められている。同書の序文において、内容の確実さを信頼できる根拠が、「この方針は、多年にわたる経験と、修士会の中でも最古参で学校運営に最も有能な会士たちとの非常に膨大な数の協議を経なければ、規則書の形式で編纂されなかった。書かれていることは十分に協議された確実なことのみであり、それらについては利益も不利益も検討されており、良い結果も悪い結果も予見できる」と述べられている箇所に注目したい。これは修士会の教育実践を探る研究方法へのヒントになると思われる。 『方針』の内容は、上記の引用箇所によれば、ラ・サール個人の経験に基づく省察の産物であるよりも、ベテランの会士つまり教師たちが長年の実践を振り返って導き出した現実的な指導法の集大成と捉えられる。したがって『方針』は、テクストから文字通りに修士会の教育の課題や方法に関する思想を読み取るのに止まらず、むしろ、その課題や方法が求められた教育実践の状況をテクストの内容から再構成していく読解こそが相応しいと考えられる。この方策で今後の研究を進めたい。
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